祈りの海

2017-03-20 12:14:24 | 生活

「生きているのには意味がある」と言う人は少なくない。そしてその根拠として挙げられるのは以下のようなものだ。

 

根拠1:他の人から必要とされているから

では人から早くいなくなってほしいと思われている凶悪犯や、生まれてすぐに遺棄された乳児については、存在する意味がない(orなかった)ということでOK?というか、人から憎まれたり恨まれたりするのは「意味」の範疇に入らないのだろうか?入らないのだとしたら、その根拠は何なのだろうか?まったく恣意的な基準としか言いようがない。

 

根拠2:その人自身が意味があると思うのならそれは意味があるのではないか?

「思う」ことが正当性の根拠だと言うのなら、ヒトラーもエヴァンジェリストもすべからく正しいし、たとえばある人間が「自分は神の子孫でその力がまだ顕現していないだけ」などと思い込んでいるのも実際正しいのだという話になる。

 

根拠3:自分の親たちの出会いの可能性などを考えると、今自分がここに生きているのは奇跡的としか言いようがないから

これは端的に言えば、偶然性を奇跡・価値とみなすという思考様式である。ところでこのロジックが成り立つとすると、災害や空襲などで偶然亡くなったり、あるいは非常に珍しい奇病に罹ることも意味があることだという解釈になるのだが、それで問題ないのだとすれば一応筋が通る解釈ではある(念のため言っておくがこれは皮肉)。ちなみに今取り上げた根拠は、「神の罰」とコインの裏表にある視点であり、このような反論の仕方に違和感があるのなら、たとえば東日本大震災で起きた津波を「神罰」とみなすような立場にあなたはコミットするのか?と私としては聞きたいところだ。

 

以上いくつか根拠を取り上げてそれに対する反論を述べてみたが、要するに「負の可能性」も考慮した一般化に耐えないようなそれらは、「根拠」というよりもただの「独善」や「妄信」と何ら変わるところがない。このようなものを根拠として錯覚してしまう原因は、「生きたい」という願望や意思と、「生きる意味がある」という定理を混同しているからである(ちなみに、それでも生きるモチベーションにつながる=役に立つから意味があると思わせとけばいいんじゃない?という機能主義的な考え方は非常によく理解できるが、一方でその論理からいくと、VRやARによる世界の恣意的な読み替えの動きに掉さすことが全く不可能である点も認識しておく必要があるだろう)。人類の存続に(誰しも納得できる証明が不可能であるという意味で)必然性などないように、あなたの存在にしても何ら必然性はない。言い換えれば、生きるとは意味の問題ではなく、端的な事実性(生きてしまっている)でしかありえないのだ。強いて言うなら、それでも生きることを、そして生き続けることを「選び取る」という意思だけがそこにあるのだ(ところで、生きる意味・必然性などないと思いながらそれでも生き続けることを選び取るという点において、私は相当な楽観主義者と言う事ができるかもしれない・・・などと言えば読者は驚かれるかもしれない。何となれば、生きる意味があると思った方がポジティブであり楽観的であると見るのは容易いからだ。しかしそのような思考態度は、その実存在の無根拠さに全く目を向けていないという点において、楽観主義者というよりはむしろ、ただの精神的盲人に等しい)。

 

ここで最後に、「なるたる」で作者が書いた至言を今一度引用して終わりとしたい。

「かけがえのない命」。
そんなモノに救いを求めていても先には進めません。
あなたがいなくても、たいして困りません。
自分がいなくても、まったく困らないでしょう。
だからこそ、無くてもよい存在だからこそ、がんばるのだと思うのです。

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