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さよならを教えて~人間☆錯覚~

2011-05-31 18:52:38 | ゲームレビュー

さよならを教えて」レビュー復活も第五弾になりましたよと。
この作品のコミュニケーションのあり方は、「沙耶の唄」の受容のされ方とつなげて論じるとおもしろい(「ディスコミュニケーションの不可避性」)・・・てところから色々書くつもりだったが、よう考えたら沙耶の唄の記事をほとんど再掲してないんで、また別の機会に。一部だけ言っておくと、沙耶の唄の方は感情移入のあり方、あるいは動員の構造が云々とかそういう話で、「ヒトラー最期の12日間」やら「ゾイド」の話と関連しますよと。

 

でまあ原文についてだが、これは「めくるめく自慰識の世界へ」でも書いたように正直益体もないものだ。たとえば望美に関して「『カラスの飛び降り』という状況はありえないからだ」と書いてある部分などは、我ながらあまりにバカバカしすぎてしばらく笑いが止まらなかったwまあ多少なりとも何かの足しにするとしたら、たとえば(無意識的な)リアリズム病ないしは論理病として、オカルトへの反応偶然性の問題とつなげるとかかな(さらに映画の「接吻」やら「この道、わが旅」などね)。まあそんな内容ではありますが、データベースとして残しておきますですよと。

 

<原文> 
前回の続きとして、睦月とまひる以外のキャラクターについて書く。こちらも特に改変を加えていない。なお、最後の段落は簡単なまとめになっている。

※以下覚書

(目黒御幸)
眼鏡の委員長タイプ。知識はあるが引っ込み思案で人付き合いが苦手な感じ。標本(=間)たる彼女に「本番に弱い」という自分と同じ性格を見ていることから、彼女らの人格には主人公の理想・印象はもちろんのこと主人公自身の性格も投影されていると考えられる(これは特にこより・望美についても言える)。

(高田望美)
屋上の少女。原型はカラス。父親に虐待されており、自殺願望がある。そのためか斜に構えたような言動が目立つ。そしてタバコをねだるなど反抗期的な要素を持っている。詳しくはわからないが、多くは構って欲しいゆえの態度なのだろう。全体的に見ると「愛情に飢えた少女」といった感じ。多分これも主人公の人格が反映されているのだろう。とすれば、主人公は親類の虐待が強く記憶に残っていたということか(主人公が成績優秀な姉と比較されることで劣等感を抱き続けてきたことを自身言及している)。原型がカラスであることからすれば、飛び降り自殺というものが明らかにありえないことがわかる。つまり、カラスであることはそのキャラクター構成にほとんど影響を与えておらず、屋上―飛び降りという連想は主人公の思考・願望を強く反映したものであることが理解できる。つーか最後に飛び降りる。飛び降りた死体に話しかけている。この段階では、もうカラスの原型があっての望美ではなく、望美がひとり歩きしていると考えられる。なぜなら、「カラスの飛び降り」という状況はありえないからだ。

(上野こより)
弓道部の少女。原型は捨てられた人形。天然キャラだが突如鋭い意見(毒舌?)を言ったりする。つかみどころのないキャラであり、その存在にどういう意味づけがなされていたか今では忘れてしまった。なんで弓道部なんだろう…
Hシーンの「解体」はその原型が関係しているのだろうか?まひるの項でも述べたとおり、やはり主人公は彼女たちを完全に擬人化しているのではなく、ある程度原型が認識できているのではないかと思える部分である。人形を解体して戯れる主人公を、その内的世界を通して見るとこうなるってことなんだろうが…言い換えると、人形を解体しているのが、主人公にとってこよりを「解体」しているように映るという事である(当たり前だが)。ともかく人間はHシーンのようには「解体」できないものだという正しい認識を主人公ができていたかどうかがポイントだと思われる。どういうことかと言うと、「解体」できないのにできるとあれば即ちそれは人間ではないわけで、その場合主人公は「解体」しているのが人間ではないということを薄々あるいははっきりと認識していたということになる。一方「解体」できないものだという認識が欠如していた場合(そしてこの確立が高いような気もするが)では、こよりを「解体」したところで彼女が人間であるという認識と矛盾しないことになる。しかしそれが、ゲーム表現上の(客観的な)ものなのか、はたまた主人公の認識を表現しようとした(主観的な)ものなのか今ひとつ区別がつかんためこれ以上は踏み込めない気がする。原画集にその辺の言及があればいいんだが…

(瀬奈美)
主人公の姉。主人公の世界においては主人公の指導教員。この位置づけも主人公の瀬奈美に対する印象が投影されていると言えるだろう。お目付け役のような感じ。彼女自身は生来の性格から主人公を叱咤しつつも、唯一の肉親としてその身を案じている。ただ彼女の存在が主人公の精神面で大きなマイナスであったことはやはり否定できない事実なのだろう(となえは気遣ってかそれを否定しているが)。狂気に負けてしまった主人公と「鉄の女」と呼ばれ敬遠すらされている面もある彼女は、鮮烈なコントラストを描いている。

(となえ)
精神科医。主人公の世界では学校の保険医。主人公の相談役という位置づけだが、本来の役目から主人公に「覚醒」を促そうとする場面もある。展開によってはとなえの気持ちが主人公に行くことも(母性本能?)。ただしエンディングはない。
またエンディングでは、主人公がとなえの病院の研修医になるという展開を見せているが、これがとなえへの主人公の依存の感情が生み出したものなのかどうかよくわからない。そもそもどのようにしてそこを病院と認識できたのかすら不明…まあ教育実習という虚構の世界が終わりを告げた時、主人公が一瞬呪縛から解き放たれ、次なる依存場所を求めたとかそういうことなのだろう。その状況では、自分がまさにそこにいて、しかもとなえという知り合いのいる病院が舞台となるのは必然であったと言える。とはいえ、教育実習という世界とそれを構成してきたヒロインたちと「さよなら」したということ、その後で病院が舞台となり、しかもそこの患者ではなく研修医として(つまり狂ったままでということなのだが)働くという世界の転換が主人公に訪れたということの意味は再検討したい課題ではある。一つだけ述べておくならば、そもそも主人公がおかしくなったのは学校教師になる(あるいはならなければならない)ことへの重圧からであった。とすれば、その呪縛から開放された主人公がなお病院の研修医として虚構の世界に漂ったままであるのはどういった必然性からなのだろうか。となえへの依存心?覚醒からの逃避?狂気を突き詰めたゲームであるだけに再プレイして確認したいものである。


実在するメインヒロイン以外はある意味全て同じエンディング。ここに製作者長岡健造氏の冷厳な視点(後述)が表れていると思う。ただ、それぞれのキャラクターに他のゲームとは違った存在意義が与えられていることを思うとき、どのキャラクターとのエンディングに至ったかはこれまでの、そしてこれからの主人公の精神が向かっていく方向を決める上で重要なポイントだという印象がある。ゆえに、製作者の意図は呑みながらも、やはりそれぞれのエンディングに変化をつけることが必要だったのではないかと思うのだ。この点で、本ゲームは今一歩のところで殿堂入りしなかった。


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