さて久しぶりに「さよならを教えて」の記事。ここで書いたのは、(1)各キャラが何を象徴しているのか、(2)左を踏まえて彼女たちとの「さよなら」が何を意味するのかという話。ちなみに前者を掘り下げると「めくるめく自意識の世界へ」となるが、それはたとえば「ゆめにっき」の世界を解釈する行為に近い(「ゆめにっき4」)。また「沙耶の唄」などと比較しながらそこで描かれるディスコミュニケーションについて書くつもりでいるが、それは(1)(2)いずれのアプローチとも違ったものとなるだろう。
<原文>
以前覚書で書いたように、さよならの少女たちは主人公の一部の投影であると考えられるが、ここではもう少し深いところまで分析してみようと思う。
『さよならを教えて 設定資料&原画集』(写真参照)によれば、各キャラは主人公が様々な時代に好きだった子を意識して設定されており、それぞれ「田町まひる=幼稚園」、「上野こより=小学生」、「高田望美=中学生」、「目黒御幸=高校生」となっている(巣鴨睦月は実在するので除外)。ここで主人公について考えてみると、教育実習に行くという設定だから、おそらく大学生(もしくはそれに相当する年齢)に達していることは間違いない。そうすると、他のキャラが主人公の投影であることも考慮に入れて並べ替えれば、
「まひる(幼稚園)→こより(小学生)→望美(中学生)→御幸(高校生)→主人公(大学生)」
となる(※)。また各キャラは、( )内の学年に応じて性格が幼かったり(まひる)、反発したり(望美)、知識で理論武装(御幸)していたりする。なるほど色々な性格・(精神)年齢のキャラが登場するのは恋愛ADVのセオリーであり、それ自体は特筆すべきことではないが、各キャラが主人公の一部の投影であること、そしてその設定が「~時代に好きだった女の子」であることを併せて考えるなら、上の構図から次のように結論するのが妥当と思われる。すなわち彼女達は、
外面は主人公が昔好きだった子の姿を取りながらも、内面の方は様々な時代の主人公の内面が(半ば切り取られて)投影されているのである。
要するに、彼女達は単なる自己の一部という曖昧なものではなく、「~時代の自分」というある程度明確な枠組みを持っていると言えるのである。
さてそう考えると、今度は彼女たちとの「さよなら」が明確な意味合いを持ち始めることに気づく。
それはかつての自分たちとの「さよなら」、そして教師にならなければならないという強迫観念からの解放であり、要するに過去との訣別なのであった。
しかしそれは狂気の終りとはならず、むしろ新たな狂気の始まりに過ぎないことが暗示される。すなわち主人公は、大森となえという新たな依存対象にすがりつつ、「研修医」として病院に止まり続ける(※2)。過去との訣別と狂気の終焉は、依存対象と偽の役割の創出によって新たな狂気に繋がっていくのであった。この終わり方に、このゲームの悲劇と厳しさが表れていると言えるだろう(※3)。
※
この構図で主人公に一番近いところにいる御幸が、「おそらく、主人公にいちばん近い場所にいる少女だろう」と評されていることに注意を喚起したい(設定資料集38P)。
※2
新たな依存対象になったと述べられてはいないが、本編中の主人公の態度からはそう考えるのが自然。おそらく、病院という施設にいても不自然ではなく、そしてとなえをお手伝いできる(少し誇張して言えば、子供が母親の手伝いをするような感覚に近いと思われる)職業として、主人公は「研修医」という新たな幻想を作り上げたのだろう。
※3
過去の自分と会いはするものの、その由来を掘り下げたり真正面から向かい合ったりするでもなく、性衝動をぶつける幻想に溺れた挙句に「教育実習生」の期間が切れてタイムアップ…という展開である以上、主人公が狂気から抜け出せない方に必然性がある。その意味で、方向性としては正解だったと言えるだろう(まあKey系のゲームが好きな人間には受け入れられないだろうが)。この点、実在する睦月とのエンディングのみdisillusion(覚醒)の可能性が示されているあたり、製作者側の姿勢ははっきりしていると言える。
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