「無敵の人」を生み出す構造:狂気の思考サーキット

2024-09-18 12:51:26 | 生活

 

 

なるほど、孤立化するとグルグル思考しやすくなり、そのグルグル思考を続けていると、ある時それが飛躍する瞬間がくる・・・か。自分が高校の時にどんどん思考がおかしくなっていった時の構造がまさにこれなので、実に興味深く聞かせてもらったわ。

 

当時を思い出してみると、3年間クラス替えなし+隔離されたように別棟にあった関係で非常に閉鎖的な構造になっていた。しかも男子は10/41名ということでほとんどグループで連れだって行動するような感じになっていたため、嫌が上でも同調圧力が強くなる環境が整っていたと言える。

 

で、その隔離病棟みたいな状況が嫌であるという不満や怒りと、とはいえ周囲が自分に合わせるよう要求するのもおかしいという否定で(なぜなら自分は周囲に合わせたくないので道理に合わない)、頭の中がグルグル思考のサーキットみたいになるケースが度々ありましたよと(ずっとというわけではなく、一度その思考のサイクルに陥ると、しばらく答えの出ない周回を延々続けることになる感じ)。

 

その時自覚していたのは、その「グルグル」のスピードがどんどん速くなってきており、ゆえにいつかサーキットを突き破ってコースアウトするだろう、ということだった。「コースアウト」とは、あり体に言えばその怒りや不満が膨れ上がって抑えきれなくなり、いずれ誇大妄想や凶行に到るだろう、ということである。

 

動画の説明では、そのグルグル思考が飛躍する様を「降りてくる」と表現しており、言わば天啓にも思える形で突如発想が跳躍するという話で(拙い方向への「ひらめき」とでも言えようか)、一方自分の場合はそれが内発的に生じてくると思っていた点で異なるが、構造的類似性はあるだろう(もちろん動画の表現は比喩なので、自身の脳内から発想が出てくるという意味ではどちらも同じである)。

 

なお堂では、この思考の「グルグル」から誇大妄想や凶行へと飛躍するのを防ぐために、その構造を自覚させ緩和するのがカウンセリングの仕事だと述べており、これは自分の経験的にも、またネットのような閉鎖的言論空間における言説の過激化の構造(エコーチャンバーやチェリーピッキング)を見ても、正しい対応だと思える。

 

ちなみに自分の場合を書いておくと、思考のサーキットがいずれ破綻することは認識していので(卒業と発狂のチキンレースとも言えるw)、あえて遥かに過激な発想をした上で、そのグロテスクさと実行困難さを自分に意識させて枷とすることで、飛躍を防いでいた。

 

具体的には、前に「ダイナマイト in 熊本」とあえてネタ化して書いたことがあるが、

1.今自分が不満や怒りを覚えていることは、構造的問題であり特定の誰かに責任がある訳ではない

2.ということは、特定の誰かを実害の対象にすることは道理に合わない

3.であるならば、自分も含めたこのクラス全体が等しく破壊される状態が正しい

4.よって、クラス全員が集まっている状況でこの教室全体を爆破するような対応が必要である

という具合。

 

念のために言っておくが、完全に頭のおかしな人間の発想法であり、このような思考を肯定する気は全くない。またそもそも、一介の高校生に教室1つを吹き飛ばすような兵器を作ることはどだい不可能な話でもある(高校生版「太陽を盗んだ男」かw)。しかし、それでいいのだ。明らかに道理も通らなければ実現も極めて困難だからこそ、「思考循環→飛躍→凶行」という破滅の抑止力になるのだから。

 

まあ結果として言えば、その自覚的発想法の効果は限定的で、実際には

A.「私を縛る『私』という名の檻」で書いたように、自分を変えたくないという自己への固執がかなり緩和された

B.大学受験が近くなり、意識のリソースを勉強に振り向ける割合が高くなった

C.予備校に通うようになり、そこが一種の「第四空間」的に機能するようになった

D.クラスで別の男子が起こしたトラブルにより、同調圧力の雰囲気がかなり弱まった

といった別の要因があり、それらの結果として思考のサーキットにとらわれる機会が急減し、破滅へ到らずに済んだというのが実情なのだが(・∀・)

 

ともあれ、こういった経験をした自分としては、今回動画で語られる「無敵の人」が生まれる構造やその思考様式、そしてその対処法の話は大変興味深かった次第である。

 

以上。

 

 

[余談1]

前述の1~4の構造を見て賢明なる読者諸氏は気付かれたと思うが、これは通り魔的凶行の時に語られる「誰でもよかった」というテンプレ的発言を想起させる(もちろん当時の私はそういう意識なく設定したのだが。ちなみに改めて見返してみると、1~4の構造は完全に拡大自殺のそれをなぞってもいると感じた)。というより、1~4の構造を観察した時に最も重要なのは、「むしろ特定の誰かであってはならない」という点ではないだろうか。

 

「特定の誰かにだけ復讐すればよい」というのであれば、一応そこで話は終わりである(凶行ではあっても無差別ではない)。しかし、そこで思考をグルグル巡らせると、「いやそこには~も関係している」「…も同類だ」といった形で雪だるま式に「環境的問題」が意識され(その構造的理解が正しいかどうかは全く別の問題)、ゆえにどこまで意識的かはともかく、「特定の誰か・何かだけを害して終わるのは、むしろ偏っている点で不当であり、ゆえにそのような行為で止まることは許されない」という話になってくる。

 

そしてかかる思考回路を経た結果、自身を最も強く抑圧・迫害している存在ではなく、むしろ全く無関係に思える対象を害するという通り魔的凶行に到るのではないか?しかしそういった思考過程を言語化できていないがゆえに、「誰でもよかった」という発言が生み出される、ということである。

 

もちろん、力の強い者には反抗できない結果、代償的に弱者を迫害する行為は歴史的にも広く見られた現象であり、そういう形での無関係な人間に刃を向けるケースもあるため、今の説明で全ての無差別的行為を説明できると言うつもりはないが。

 

 

[余談2]

思考の閉塞的循環構造に陥った時しばしば決定的に重要なのは、他のものに思考のリソースを振り分けることである(「思考内容を論理的に筋道立てた形で解決することこそが正しい」とみなすのは、よくある勘違いの一つ)。その意味で、第三者がその思考過程に介入することで飛躍と凶行にストップをかけるという施策は非常に有効と言っていいだろう。

 

ちなみに自分の場合は、(結果としてだが)誰かの助言や発想を借りるでもなく、頭の中であれこれ考えている際に、ふと「体系的な自己も体系的な世界像も等しく根拠なき幻想であり、ゆえにそれが明確にあるかのように固執するのは愚かではないか」という結論に到った結果、自分をカメレオンのように変えることに以前ほど抵抗が無くなった、という事情がある。

 

またこういう思考過程を経たことは、結果として自分を極めてリバタリアン的発想をする人間にしており、このブログでも最初の3~4年の記事は特にその色が濃いものとなっている。

 

また私はよく「人間を信用しない」と書いているが、それは「他人を信用しない」という意味ではなく、あくまで「自分を含めた人間一般」を信用しないのである。そしてその背景は、自分がこうも独善的な発想にとらわれていた経験を持っている部分が大きい(まあ元々あった極限状況における人間の振る舞いの変化についての考え方なども影響はしているが)。


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