狂気への傾倒から価値相対主義へ

2006-01-27 21:32:19 | 生活
「普通」という基準への嫌悪・反発は、中学三年において「虜」というゲームを求めるという形で顕在化した。しかしそれは、自分の想像していたものと異なっていたのであり、むしろ狂気への希求が沈静化する結果となった(この辺りの事情は過去ログ「狂気への傾倒と現実」を参照)。行動原理を失った私が行き着いたのは、価値相対主義だった。そう言うと大げさだが、要するに「普通」か「狂気」かという二項対立的な考え方ではなく、様々な考え方がそこそこの妥当性を持って存在しているという見方に変わったわけである。そうすることによってようやく、「普通」という基準を多少は認めることができるようになった。もっとも、今度は一般化を嫌うようになり、哲学などに反発するようになったのだが…

そこからは寛容さを装った無関心によって割と息災に生きれるようになったので、まあ楽といえば楽になった。主張するに値する物事が存在しない以上、全ては聞き流せばいいのだから(かつてある知人が私のことを「感情が希薄だ」と評したことがあったが、こういった行動原理からはしごく当然の性質だと言える)。それまでも「感動しなければならない」「悲しまなければならない」といった「普通」を基準とする「しがらみ」や義務感で動いていた部分が大きかったので、それをより自覚的・表面的にやるだけでコトは済んだ。その結果内面は取り残されることになったが、漱石の「こころ」やTacticsのoneといった考えさせられる作品と出合ったこと(「自分が消える」という感覚には衝撃を受けたものだ)、受験が近かったことによってそちらに没頭できたこと、予備校で面白い授業を受けることができたこと等によって、暴走どころかむしろ集中して残りの高校生活を終えることになった。

そして大学に入っての筒井作品との出会い。ここからまた、考え方がシフトしていくことになる。
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