人間という存在がどのように言語を習得していくのか、というのはなかなか興味深いテーマだが、それを「自閉症(ASD)の人たちが方言を話さないのはなぜか?」という問いを立てて実地調査・検証していく『自閉症は津軽弁を話さない』は非常におもしろい内容だった。
そこでは、「あらゆる自閉症の人が全く方言を話さない」というわけではない、といったことを複数地域でのアンケート調査で確認しつつも、やはり傾向としては定型発達の人たちに比べ、明らかに自閉症の人たちは方言を使わないことが見て取れることを提示する。
その上で、そもそもの言語学習方法やコミュニケーションの特異性に着目しながら、自閉症の人たちは日常のやり取りにおける意図読み・意図理解とそれを通じた言語習得が苦手なため、テレビなどのメディアを通じた「意図理解なしの模倣」という言語学習がメインになるという点を指摘する(だから文脈に合わないセリフの棒読みといった行動・言動が観察される)。
加えて、方言の社会的機能(心理的理解)にも注目し、「普段のコミュニケーションで方言と共通語の使い分けをどのようにしているか」というアンケート結果を援用しながら、定型発達の人たちは「地元の親しい人→方言を使用」・「外からやってきた人やあまりよく知らない人→共通語を使用」といった区分けをしていることを踏まえ、「そもそも相手の距離感に応じて両者を使い分けるというコミュニケーション方法が、自閉症の人には困難を生じさせるから、そういう手法を取らない・取れない」という予測を立てている(この「内」と「外」に似た使い分けは、英語のレジスターやスラングなどのように、日本に限らず幅広く観察される現象である。あるいは、前の記事で書いた「轟はじめ」というVtuberが、リラックスしている雑談では独特な語尾でやや聞き取りにくい[笑]しゃべり方をしているのに対し、歌や早口言葉のようにそもそも身構えてから発声する状態においては、むしろ極めてクリアで聞き取りやすい声になる、といった事例も参考になるかもしれない)。
さらに、自閉症の人の特徴を踏まえている人たち=多くは家族や先生といった普段よく接している人たちは、その特性を踏まえて座ってほしい時に「座って」と言うのではなく、「座ります」といった表現方法を用いるのだという。これはつまり、自閉症の人々は意図読みが不得手なので、「私はあなたが座る状態を欲している」と言っても伝わらないため、こちらが相手の行動をあたかも決定事項のように伝えることで、結果的に命令が伝わってこちらの欲する行動を取ってもらうのと同じ状態を作り出すということらしい。これはあたかも、オースティンの言う「パフォーマティブ」のようであり、大変興味深い話だった(これは本来、裁判官の判決のように、「発言することで効力を発揮する」タイプのもので、単に事実を記述するという言語行為とは異なるものとして言及された表現形式である。ただ、自閉症の人たちに向けた命令文のあり方とその有効性はその様態と似ているように感じられるし、またなぜ彼・彼女らにそのような表現形式が有効であるのか、つまり自閉症の人々の中でどのような認知が働いているのか、大いに気になるところである)。
ということで、本書は日常のふとした気付きから、それが一般性を持つのか具体的に検証し、さらにその理由を多角的に掘り下げながら、最終的にただ自閉症の人たちと方言というマターだけでなく、そもそも人間の言語学習一般のあり方や、コミュニケーション様式といったより大きな領域まで掘り下げていく内容となっているので、少しでも興味を持たれた方は、ぜひ手に取って読んでみていただきたい。
【余裕があればこちらもどうぞ】
さらにもう一歩踏み込んでおくと、個人的に今後の日本社会のコミュニケーションにおいて重要と感じた点は、自閉症の人々の言語理解の特徴として挙げられた、次の話である。
すなわち、とある講演で「①彼女は海が好きだ」「②彼女は海が好きだった」という二つの文を見せ「今も彼と彼女は付き合っているか」と問うたら、多くの聴衆は①は現在も付き合っていて、②の場合は付き合っていない、と答えたという。しかし、その時一緒に公演をお願いしていたASD(自閉症)の人は「私には別の可能性も考えられるから、その質問には答えられない」とし、「前は海が好きだったけど、嫌いになったかもしれないし、山が好きになったのかもしれない」との意見を出したという。著者は、言葉だけの分析としてはその解釈を否定できないとしながら、彼と彼女の詳しい情報が与えられていない以上、話者の意図を汲んだ上で最もありそうだと判断した回答をするものだ、と述べている。
少し表現が曖昧で著者の意図が若干伝わりづらいのだが、これは国語のテスト問題として読み替えると、「多くの聴衆」の対処法と、自閉症の人の発想法の問題点がそれぞれよりクリアになる。すなわち、ここでの設問要求は、①と②の文言も踏まえた上で、「今も彼と彼女は付き合っているか」なのである。とするなら、①と②にはそれを峻別するヒントが示されていると考えるのが妥当で、その前提で読み解くなら、①は現在形から「付き合っている」と判断し、②は過去形から「今は違うという含意がある」、すなわち「付き合っていない」と判断することができる。
つまり、自閉症の人の答え方に問題があるのは、設問要求という前提を無視して様々な可能性を考慮している点であって、そこの読み取りができているか否かの差なのだよ、と(「設問要求」を現実の人間関係に落とし込むと、最近の「失敗と辛さの原因は、多分それじゃない ~40代婚活女性の話~」で書いた、婚活相手の言行から透けて見える人間性や、こちらに期待する行動への予測などがそれに当たる)。
で、何でこの部分をわざわざフォーカスしたのかと言うと、実はこの論点、今後の社会でますます問題化・重要化していく可能性が高いと思っているからだ。ここからの話はガチガチに詰めて書くとまた長くなるので、箇条書きにすると以下の通りだ。
1:現代社会においては、一般的に価値観の多様化や社会の複雑化が進む
2:ボーダーレス化などにより、旧来の共同体は解体が進んでいく
3:日本はムラ社会的メンタリティが未だに色濃く残っており、同調圧力が強い
4:日本語は省略が多く、ハイコンテクストな言語と言える
5:1・2による共通前提は急速に消失していっている一方、3・4の事情でコミュニケーション形態は全くそれに対応できていない
6:以上の理由により、先の講演の例で出てきたようなディスコミュニケーションは急速に拡大していく可能性が高い
7:察しない相手に苛立つ者、お前のことなんか知らねーよと苛立つ者たちで、生きづらさはさらに加速
8:そこのAIの「進化」がコミュニケーションからの退却を促進。他者はますます「風景化」する
おいおい一体何の話をし始めたんだ?と思われるかもしれないが、この一つの表れ方が、「『ごんぎつね』をトンデモ解釈する小学生たちの話」で書いた事例と言えるかもしれない。これは葬送と思しき場面での行為を「消毒」だと解釈したりなど、状況把握ができない小学生たちについて「そもそも読解力以前に情緒理解とか大丈夫か??」と懸念を呈する「サトマイ」という方の動画があって、それを批判的に取り上げたものだ。
ここまで極端でなくても、おそらく我々が「いやそのくらい説明しなくても読み取れるでしょ」と思い、実際それで今のところ通用している領域は、今後急速に減っていくと予測される。例えば、「ごんぎつね」については葬式に出た経験の有無という話も出ているが、そもそも葬式のあり方が多様化の傾向を見せているので、「死者との別れ」一つとっても、一般化が難しくなる可能性が想定できる(まあそれでも火葬は法律で決まっているし、また墓をいきなり無くすのは社会通念+仏教教団の運営上難しいだろうから、ある程度の共通項はしばらく残り続けると思うけども)。
あるいは家族の形態はどうだろうか(シングルマザーや事実婚etc...)?動物に対する観念はどうか(例えば、動物を飼う行為自体を野蛮とみなす人がそれなりの数出てこないとどうして言える)?
要するに、これまでは何の根拠もなく、「マジョリティはおそらくこうだからまあこれで通じるよね」という観念(先の例で言えば「設問要求」)を軸にコミュニケーションや教育を成り立たせていたわけだけど、それはどんどん社会の変化とともに通用しなくなっていくし、そもそも日本語という言語および運用方法自体が、そのような変化に対応しにくいものとなっているのである(見知らぬ他者に対し、誤解を避ける表現にしつつ日本語で簡潔明瞭なプレゼンをする機会なんて、一体どれほどあると言うのだろうか?また、これはどこで目にしたのか悪れたので細かくは触れないが、自閉症だか発達障害の子どもに対し、主語や目的語を明示する英語でコミュニケーションをするようになったらその意図するところが伝わりやすくなり、やり取りが多少円滑になったという話を聞いたことがある)。
この事からすれば、本書で述べられているような、自閉症のコミュニケーション法が特異とされる状況だったり、あるいは公演での独特な解釈の仕方が定型発達=マジョリティとの距離があると明確にわかるような状態は、10年とは言わないまでも、20年・30年後の日本ではもはや成立しえないほど、割とありふれたものとなっているのではないか、と私は思うのである。
以上。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます