去年の8月に祭囃し編の冒頭のやり取りとポストモダン的人間観を書いてはや六ヶ月…鷹野の神観念や母親の扱い、カケラ紡ぎの意味、魅音と小此木が戦う意味などを書いてきたが、最後はスタッフルームの作者のコメントを検討し、戦闘力という観点から批判を加えることにしたい。
作者はスタッフルームで沙都子の救い方に関して以下のように述べている。
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殺人を肯定的に描く、いわゆる殺人エンタメ作品であるならば、「崇殺し編」が正解です。圭一はうまく鉄平を殺害し、死体を隠せてハッピーエンド。しかし、私はそれを美しい世界として締めくくらず、明白なバッドエンドを当てて否定しました。
この『ひぐらし』の世界観が示す解とは、「皆殺し編」の、みんなで連帯して非暴力で訴えていく、というものでした。特に出題編である「鬼隠し編」「綿流し編」「崇殺し編」で多く描いていますが、この世界では、疑心暗鬼に陥り、一人で悩み込み始めると必ず事態は悪化し惨劇を招くようになっています。「目明し編」に至っては、その極みであると言えるでしょう。
逆に、仲間に打ち明け相談した場合、数々の惨劇の火種は、どれも呆気ないくらいにくだらないものであったことが次々にわかることが「罪滅し編」「皆殺し編」で示されています。
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ここでは祭囃し編の大団円が崇殺し編で示された殺人に対する否定的な描写と密接に関係していることが明示されているが、崇殺し編は具体的にどのような形で殺人の否定を描いているのだろうか?
単純に言えば、鉄平殺しによって誰も救われず、最も救うべき沙都子から完全に否定されている(行動の価値以前に、彼女は鉄平が生きていると「錯覚」していた)ところが、そのまま殺人という行為の否定になっている。しかし、ここで注目したいのは殺人に至る背景である。まず前提として重要なのは、圭一の弱さである。先ほど掲載した「ひぐらし綿流し編再考:梨花の発言、戦闘力の問題など」でも触れているが、圭一は喧嘩に勝ったことがないと自分で言っている。さらに塾に通いつめていたことも考えれば、東京にいた頃の圭一は、作中のアクティブなイメージと違い、むしろ「もやしっ子」に近かったとさえ言えるだろう(念のために言っておくと、圭一は雛身沢に来て一ヶ月も経っていないから、飛躍的に運動神経が向上したと解釈するのは無理がある)。なぜそれが重要なのかと言えば、圭一が弱いからこそ鉄平殺害の決意に重みが出てくるからだ。もし仮に圭一が赤坂並に強ければ、計画を考えた後はひねり潰すだけで、あれほど悩むことはなかったろうし、プレイヤーも「さっさと殺れよ」ぐらいにしか思わなかったのではないだろうか。しかし、圭一は「もやしっ子」であり、さらに鉄平は喧嘩慣れしたゴロツキであるから戦力差は明らかな上、圭一はバレないよう殺し方や死体処理のことまで考慮しないといけない。だから彼はあれほど考え込むわけである(下手の考え休むに似たり、といった突っ込みは取りあえず置いておく)。そしてここからが最も重要なのだが、そのように必死に考え行動した「にもかかわらず」、それが救うべき沙都子に真っ向から否定され、あまりに救われない結末に哀しみ、痛み、虚しさが生じる。そしてそれらは、「警察とかが無理ってのは本編でも言われてたし…他にどうしろってんだ!?」という憤りを生み、それが殺人以外の方法の模索へと繋がっていくのである。崇殺し編の殺人の否定は、リアルな戦闘力をもとにきちんと積み上げられたがゆえに重みを持ち、またプレイヤーに伝わるものとなっているように思う。
これは逆に言うと、戦闘力からリアリティを奪えばそのような構造は崩壊するということでもある。つまり罪滅し編・皆殺し編でやったファンタジックな戦闘力の描写は、まさに崇殺し編の重みを崩壊させるものなのだ。もう少し詳しく説明すると、戦闘力のリアリティが失われれば、圭一の決意・行動の重みを支える実力差が意味をなさなくなるが、そうすると彼の行為からは重みがなくなり、それゆえ苦悩する姿も愚かしいものとなる。別の言い方をすれば、それは鉄平殺害にまつわる一連の心理描写や殺人という行動といったものが、単なる茶番に堕するということに他ならない。そして茶番となれば、本来あったはずの哀しみも痛みも虚しさも消えうせ、代わりに嘲笑だけが残るであろう。そしてそのような感情しか生み出さない物語が、殺人の否定という(祭囃し編のスタッフロールでも繰り返すほどの重要な)テーマをプレイヤーの心に届かせることができるかといえば、非常に疑問なわけである。
このように、戦闘力は単なるリアリティ云々の問題に止まらず、テーマに重みを持たせる上で重要な意味があるのだ。この点の描写にブレが生じてしまったことは、テーマの重要性も考えれば小さくない瑕疵だと言えるだろう。
(追記)
もちろん、作者がリアリティに裏打ちされた惨劇の世界をファンタジーを用いて打ち破ろうとしていることは、祭囃し編の位置づけなどからも自明である(リアルなら皆殺し編のようにしかならない、といった趣旨のことが「ひぐらしのなかせ方」には書かれている)。とは言うものの、罪からは全く違ったルールで…というのは説得力がない。その辺りは転換の稚拙さといった話になるのだが…それは別の機会に述べることにしたい。
作者はスタッフルームで沙都子の救い方に関して以下のように述べている。
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殺人を肯定的に描く、いわゆる殺人エンタメ作品であるならば、「崇殺し編」が正解です。圭一はうまく鉄平を殺害し、死体を隠せてハッピーエンド。しかし、私はそれを美しい世界として締めくくらず、明白なバッドエンドを当てて否定しました。
この『ひぐらし』の世界観が示す解とは、「皆殺し編」の、みんなで連帯して非暴力で訴えていく、というものでした。特に出題編である「鬼隠し編」「綿流し編」「崇殺し編」で多く描いていますが、この世界では、疑心暗鬼に陥り、一人で悩み込み始めると必ず事態は悪化し惨劇を招くようになっています。「目明し編」に至っては、その極みであると言えるでしょう。
逆に、仲間に打ち明け相談した場合、数々の惨劇の火種は、どれも呆気ないくらいにくだらないものであったことが次々にわかることが「罪滅し編」「皆殺し編」で示されています。
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ここでは祭囃し編の大団円が崇殺し編で示された殺人に対する否定的な描写と密接に関係していることが明示されているが、崇殺し編は具体的にどのような形で殺人の否定を描いているのだろうか?
単純に言えば、鉄平殺しによって誰も救われず、最も救うべき沙都子から完全に否定されている(行動の価値以前に、彼女は鉄平が生きていると「錯覚」していた)ところが、そのまま殺人という行為の否定になっている。しかし、ここで注目したいのは殺人に至る背景である。まず前提として重要なのは、圭一の弱さである。先ほど掲載した「ひぐらし綿流し編再考:梨花の発言、戦闘力の問題など」でも触れているが、圭一は喧嘩に勝ったことがないと自分で言っている。さらに塾に通いつめていたことも考えれば、東京にいた頃の圭一は、作中のアクティブなイメージと違い、むしろ「もやしっ子」に近かったとさえ言えるだろう(念のために言っておくと、圭一は雛身沢に来て一ヶ月も経っていないから、飛躍的に運動神経が向上したと解釈するのは無理がある)。なぜそれが重要なのかと言えば、圭一が弱いからこそ鉄平殺害の決意に重みが出てくるからだ。もし仮に圭一が赤坂並に強ければ、計画を考えた後はひねり潰すだけで、あれほど悩むことはなかったろうし、プレイヤーも「さっさと殺れよ」ぐらいにしか思わなかったのではないだろうか。しかし、圭一は「もやしっ子」であり、さらに鉄平は喧嘩慣れしたゴロツキであるから戦力差は明らかな上、圭一はバレないよう殺し方や死体処理のことまで考慮しないといけない。だから彼はあれほど考え込むわけである(下手の考え休むに似たり、といった突っ込みは取りあえず置いておく)。そしてここからが最も重要なのだが、そのように必死に考え行動した「にもかかわらず」、それが救うべき沙都子に真っ向から否定され、あまりに救われない結末に哀しみ、痛み、虚しさが生じる。そしてそれらは、「警察とかが無理ってのは本編でも言われてたし…他にどうしろってんだ!?」という憤りを生み、それが殺人以外の方法の模索へと繋がっていくのである。崇殺し編の殺人の否定は、リアルな戦闘力をもとにきちんと積み上げられたがゆえに重みを持ち、またプレイヤーに伝わるものとなっているように思う。
これは逆に言うと、戦闘力からリアリティを奪えばそのような構造は崩壊するということでもある。つまり罪滅し編・皆殺し編でやったファンタジックな戦闘力の描写は、まさに崇殺し編の重みを崩壊させるものなのだ。もう少し詳しく説明すると、戦闘力のリアリティが失われれば、圭一の決意・行動の重みを支える実力差が意味をなさなくなるが、そうすると彼の行為からは重みがなくなり、それゆえ苦悩する姿も愚かしいものとなる。別の言い方をすれば、それは鉄平殺害にまつわる一連の心理描写や殺人という行動といったものが、単なる茶番に堕するということに他ならない。そして茶番となれば、本来あったはずの哀しみも痛みも虚しさも消えうせ、代わりに嘲笑だけが残るであろう。そしてそのような感情しか生み出さない物語が、殺人の否定という(祭囃し編のスタッフロールでも繰り返すほどの重要な)テーマをプレイヤーの心に届かせることができるかといえば、非常に疑問なわけである。
このように、戦闘力は単なるリアリティ云々の問題に止まらず、テーマに重みを持たせる上で重要な意味があるのだ。この点の描写にブレが生じてしまったことは、テーマの重要性も考えれば小さくない瑕疵だと言えるだろう。
(追記)
もちろん、作者がリアリティに裏打ちされた惨劇の世界をファンタジーを用いて打ち破ろうとしていることは、祭囃し編の位置づけなどからも自明である(リアルなら皆殺し編のようにしかならない、といった趣旨のことが「ひぐらしのなかせ方」には書かれている)。とは言うものの、罪からは全く違ったルールで…というのは説得力がない。その辺りは転換の稚拙さといった話になるのだが…それは別の機会に述べることにしたい。
その中で祟殺し編で少しコメントさせて頂きます。
>別の言い方をすれば、それは鉄平殺害にまつわる一連の心理描写や殺人という行動といったものが、単なる茶番に堕するということに他ならない。
圭一の戦闘力を低く見積もったとすると確かに前後関係に対して矛盾なく説明できます。しかし、仮に圭一の戦闘力が高い場合の仮定として
>もし仮に圭一が赤坂並に強ければ、計画を考えた後はひねり潰すだけで、あれほど悩むことはなかったろうし、プレイヤーも「さっさと殺れよ」ぐらいにしか思わなかったのではないだろうか。
このように考察されていますが、私の見解は少し違います。
もし仮に圭一が赤坂並に強ければ、計画を考えた後でも、人を殺めることに関しての悩み、苦悩、罪悪感などは付きまとうのではないかと思います。これは殺人を行う行為自体の苦悩ではなく、人間の人道主義的立場からの必然的なものであるからです。確かに鉄平を殺すだけの”戦闘力”があったとしたならば、後に苦悩する圭一の心理描写は「戦闘力と殺人に関しての苦悩」については茶番に見えるかもしれません。しかし殺人そのものに対しての圭一の道徳律、生死による矛盾などからの、苦悩として捉えると問題なく説明できるのではと思います。。
まとめると
圭一の戦闘力が赤坂並に強かったとしても、人道的立場からの苦悩は変化しない。よって可能性は否定できない。殺人の否定というテーマを伝える上で、圭一の戦闘力は主題を明確に伝えるための一つのツールであり、圭一の苦悩は「戦闘力と殺人に関しての苦悩」と解釈するのが妥当である。
誤字がありましたので訂正致します。
もし仮に圭一が赤坂並に強ければ、
⇒もし仮に圭一が赤坂並に強いとしても
確認したいのですが、崇殺し編の中に鉄平を殺すことへの罪悪感は出てきましたでしょうか(それによって返信の内容は大きく変わります)?また出てきたとすればどのような内容だったでしょうか?記憶にないので教えていただければ幸いです。
実際に祟り殺し編で鉄平を殺害することへの罪悪感は出てきておりません。
あくまで戦闘力が高かった場合の一つ仮定として、圭一が苦悩することもありえたのではないかというのが、私の考えです。
>しかし、圭一は「もやしっ子」であり、さらに鉄平は喧嘩慣れしたゴロツキであるから戦力差は明らかな上、圭一はバレないよう殺し方や死体処理のことまで考慮しないといけない。だから彼はあれほど考え込むわけである
ぎとぎとさんのように、”力”があれば苦悩することはない。逆に鉄平殺害の心理描写は蛇足であるという見方もできますが、仮に”力”があったとしても苦悩を描くならばそれはどのようなものか。苦悩する可能性は本当にないのかを考えたつもりです。
>もし仮に圭一が赤坂並に強いとしても、計画を考えた後でも、人を殺めることに関しての悩み、苦悩、罪悪感などは付きまとうのではないかと思います。これは殺人を行う行為自体の苦悩ではなく、人間の人道主義的立場からの必然的なものであるからです。確かに鉄平を殺すだけの”戦闘力”があったとしたならば、後に苦悩する圭一の心理描写は「戦闘力と殺人に関しての苦悩」については茶番に見えるかもしれません。しかし殺人そのものに対しての圭一の道徳律、生死による矛盾などからの、苦悩として捉えると問題なく説明できるのではと思います。。
まとめると
圭一の戦闘力が赤坂並に強かったとしても、人道的立場からの苦悩は変化しない。よって可能性は否定できない。殺人の否定というテーマを伝える上で、圭一の戦闘力は主題を明確に伝えるための一つのツールであり、圭一の苦悩は「戦闘力と殺人に関しての苦悩」と解釈するのが妥当である。
というのが最初に3かんさんが書かれた内容ですが、これを見る限り、3かんさんは「現行の」崇殺し編において圭一に殺人への罪悪感があると認識されているようにしか読めません(人間の人道主義的立場からの必然的なものである、とまでおっしゃっているわけですから)。それゆえ、私はそう解釈する根拠があるのだと思って「崇殺し編の中に鉄平を殺すことへの罪悪感は出てきましたでしょうか」と書いたわけです。にもかかわらず、次の記事では
>あくまで戦闘力が高かった場合の一つ仮定として、圭一が苦悩することもありえたのではないかというのが、私の考えです。
と書いていらっしゃいます。これは論点がずれてしまっていませんか?現行のひぐらしの話からいつの間にか表現の可能性の話になっているわけですから。もっと言えば、私は本文において「このような表現もありえる」という表現の可能性の話はしておらず、罪滅し編や皆殺し編における描写が、崇殺し編の鉄平殺害という現に今ある、しかも重要なテーマを担っているイベントの意味合いが薄れてしまっていることを批判しています。その意味で、最初の3かんさんの記事は話題に合致していますが、三番目の記事はやや的外れな内容になっているようにも思うわけです。
>ぎとぎとさんのように、”力”があれば苦悩することはない。逆に鉄平殺害の心理描写は蛇足であるという見方もできますが、仮に”力”があったとしても苦悩を描くならばそれはどのようなものか。苦悩する可能性は本当にないのかを考えたつもりです。
なるほど…もしここに書かれていることが私の記事から受けた印象であるなら、残念ながら内容を誤解されていますね。おそらく「人間の人道主義的立場からの必然的なもの」という3かんさんの認識に原因があると思われますが(誤解を招かないように言っておくと、その考え方自体が間違っているのではなく、それを崇殺し編の前原圭一に適用しているところが問題なのです)、私の説明不足にも大きな原因がありそうです。
よって次回、もう少し掘り下げた記事を書きますのでそちらをご覧下さい。では。
たとえば、喧嘩にかったことはないというのではなく、圭一が実際に鉄平に対して殴りかかり、返り討ちになる…など。
私は、この戦闘力の差行動に重みを持たせていることは、物語を見たときはわかりませんでした。ぎとぎとさんの、考察記事を何度も読み返して、重みをおいているようだということが何となくわかったぐらいですから(単に私が馬鹿だったということもありますが…)
この辺りをプレイヤーの感受性の観点から分析しなければならないと考えているみたいですが、これはそもそも分析ではなく、誰もが一般にわかる方法で物語を伝えるべきであって、分析どうこうで物語のテーマの捉え方が変わってしまうようでは、問題だと思うのです。
>戦闘力がテーマを~
文が婉曲的で何を批判しているのかわかり辛いのですが…一応文面通りに読んだ場合で返事をしておくと、ひぐらしの描写に工夫の余地があるというのは異論はありませんよ。直接対決をやった方がより「わかりやすく」実力差は示せるでしょうね。まあそれをやるとPS2版の憑落し編の如き短絡的行動になってしまい、プレイヤーからは嘲笑されるだけのような気もしますが(=プレイヤーを同一化させ、しかる後に沙都子に否定させることで内省へと向かわせる演出は機能しづらくなる)。
まあでもそんな話ではありませんよね?真におっしゃりたいことは、「戦力差に関する直接的な描写はなく、それゆえ重要なテーマになっているとは言いがたく、主張に妥当性があるようには思えない」といったところでしょうか。
しかしやはり、直接対決の描写などは特別必要ないと言えます。なぜなら、圭一が特別強いわけでもなく(むしろ「弱い」と推測せざるをえませんが)一方の鉄平が喧嘩慣れをしているらしいという話だけで、「完全犯罪」を目論む圭一にとっては殺し方など十分な苦悩の材料になるからです(そしてその苦悩こそがカタルシスを生み、それが脱臼されるからこそ作者のテーマが結果として浸透するという構造になっていると考えられるわけです)。でも赤坂のように戦闘力が圧倒的であればいくらでも殺害の方法はあるため、そのような苦悩は生じない…というわけです(子供が大の大人を殺すという「等身大」の目線で描かれている点にも注意を喚起したいところです)。
どうも戦力差だけが印象付けられてしまったようですが、「完全犯罪」との兼ね合いも考えれば、現行の間接的な描写でも十分理解できるレベルだと思いますがいかかでしょうか。
>この辺りをプレイヤーの感受性の観点から分析しなければならないと考えているみたいですが、
「プレイヤーの感受性の観点から分析」は完全に誤読ですね。私が言っているのは、プレイヤーが戦闘力の問題に関して全体を統一的に見渡すような読み方をしなければ、たとえ解決編の戦闘力がいささか現実味にかけていたとしても、それが祟殺し編の重みを解消してしまうものとはなりえない、ということなのです。
別の言い方をしましょう。
本文での私の主張は、戦闘力の描写が祟殺し編の鉄平殺害の重みを消すために嘲笑しか残らず、その結果プレイヤーにテーマが的確に伝わらない、というものなわけですから、結局プレイヤーが戦闘力の問題を祟殺し編にまで遡行して考えようとしなければ、成立しえないわけですよ。そのような事情から、戦闘力の描写はプレイヤーの印象に影響を与えているのかという受容分析の欠落が「本質的な問題」だと書いているのです。
>誰もが一般にわかる方法で物語を伝えるべきであって、分析どうこうで物語のテーマの捉え方が変わってしまうようでは、問題だと思うのです。
え~と、これは何を批判したものなんでしょうか?よくわからないので教えてくださいwもし主張をとにかく分かりやすく伝えろ、というのなら理解はできますが、作品に限らず社会でも人間でも歴史でも、「分析どうこう」で見え方はいくらでも変わってくるものですよ(ちなみに、「作者が何を言おうとしているのか、それをどのように表現しているかが重要だ」と私は前々から強調していますが、それがどのように読まれているか、なぜそのように読まれているかという視点もまた非常に重要なのです)。作品の誤読や二次創作の普及など今さら指摘するのも馬鹿らしいほどの現象ですしね。もしそのような現状認識なしに上記のような発言をされているなら、一作品の様々なレビューを読んだ方がよいと思います。
私が言いたかったのは、
主題を重み付ける圭一の苦悩や間接的描写が誰もが、理解できるレベルにあったのにもかかわらず、どのように印象付けられたか受容分析しなければならないことに矛盾を感じていることです。
最後の
>誰もが~
この文は、先程の矛盾から生じたものです。
分かりにくい文ですみません。
なるほどそういうわけですか…
一応「リアリズム」(この言葉自体危ういので本当は使いたくない)や「陳腐さ」といったキーワードをもとに追記ないしは反論を考えていましたが、それは掲載しないことにします。とはいえ、
>主題を重み付ける圭一の苦悩や間接的描写が誰もが、理解できるレベルにあったのにもかかわらず、どのように印象付けられたか受容分析しなければならないことに矛盾を感じていることです。
の部分を見る限り、やはり私の言っていることが理解されていないようなので、改めて繰り返します。ここで私の言っている受容分析は、祟殺し編の描写そのものの受け取り方ではなく、戦闘力をひぐらし全体に通底する問題として見ることができているか否か、を対象にしています。なぜ後者のような視点が出てくるかと言うと、祟殺し編のお疲れ様会で「各キャラのパーソナリティに変化はない」という発言があったり、あるいは梨花が「重ねて見れば共通点が見えてくる」と言っているように、個々の物語をぶつ切りに見るのではなく、そもそもひぐらしの側が重ね合わせることを要求しているからです(この点はいくら強調してもしすぎることはありません)。
ゆえに私としては戦闘力の描写の齟齬は決して無視しえない問題なのですが、一方目の前でカタルシスさえ得られれば満足だというプレイヤーが大多数ならば、いくらそれが「正し」かろうと、そのような視点から批判をしてもあまり妥当性はない、と言っているのです。
私の場合、祟殺しの戦闘力の描写というものに限定しすぎるあまり、全体的な印象付けが忘れられている。なので、それらを包括した上での分析は必要であるということでしょうか。
>ここで私の言っている受容分析は、祟殺し編の描写そのものの受け取り方ではなく、戦闘力をひぐらし全体に通底する問題として見ることができているか否か、を対象にしています。
ここで少し受容分析の目的と、対象を明らかにする必要があります。私が考える、受容分析とその意義は、ひぐらし全体を通しての根底にある、”戦闘力”がプレイヤーに対してどのように印象、影響を与えたかというのは、個々の洞察によって導き出されるものでなければならないと考えております=(できるか否かという問題)その上で、全体的な考察を通して十分に理解できるレベルに到達する材料はすでに物語中に潜んでおり、その中から隠れた本質(この場合は、ひぐらしの全体的に通低した戦闘力の意義)を捉えられるかは、本人次第であり、どのような過程を経て、印象を与えたかを分析するというのは、単なる対象となるプレイヤーの考察不足であり、ナンセンスだということです。
>ゆえに私としては戦闘力の描写の齟齬は決して無視しえない問題なのですが、一方目の前でカタルシスさえ得られれば満足だというプレイヤーが大多数ならば、いくらそれが「正し」かろうと、そのような視点から批判をしてもあまり妥当性はない、と言っているのです。
受容分析の必要性がないのは、私が限定的に物事を捉えているから、もしくは本質を欠いた論点を受容分析すると考え、必要ないと考えていると思われてしまったことが原因なのでないかと思われてしまったのは私の表現不足です。