なぜ銅の剣までしか売らないんですか?:社会構造の基礎知識、共生の作法、生存競争、絆

2021-03-20 18:30:30 | 生活

 

 

 

 

 

 

 

 

なるほど、先に本を発売しといて、1か月経ったら動画を出すと。こうしたら、本を買うような元々熱心なファンは動画も見るし、お金を出してまでコンテンツをほしくない、もしくは本をわざわざ読みたいとは思わないという層も取り込めるから、結構な動画再生数が最初から見込める(もっとも、これはYou tubeチャンネル登録者数が15強いるからこそできる予測でもあるが)。さらに言えば、後二者のような人々も動画を見て本が欲しくなって買う、ということで本自体の販促にもなる・・・ってわけか。さすがですなあ。

 

あ、どうもムッカーです。最近は「ひぐらしのなく頃に 業」「ドイツ旅行」「鬼滅の刃」「Vtuber」あたりの記事に絞って書いておりましたが、ちょっと違うものを取り上げてみたいと思いますよと。

 

そういうわけで、今回冒頭に掲載したのは、「F欄大学就職チャンネル」を運営する「エフ」氏の書いた「なぜ銅の剣までしか売らないんですか?」である。動画を見れば、そこに中世ギルド的な談合的運営方式、バブルの構造、炎上商法やポピュリズム・・・と様々な歴史や社会からのオマージュがあることが比較的容易に理解されることかと思う。

 

・・・などと書きはしたものの、この動画に出てくるようなリアルが、果たしてどれほどの人間に共有されているのか、私にしてみると極めて疑問でもある(もちろん、「シニカルな弱肉強食的側面が社会の全てである」と言うのなら、それはそれで間違っているのだけれども)。しかし、このような社会理解、あるいはもっと言えば過去の歴史や社会現象の性質理解を踏まえることなしに、人を信用せずリバタリアン的生き方を身上とするのも、相互扶助を重視してリベラリズム的志向を良しとするのも、ともに幼児的な思考ではないだろうか(その意味で言えば、今回の動画は最終的な結論ではなく、むしろそれを土台とすべきという点で「基礎教養」と呼ぶべき範疇のものだとすら私は考える。なお、動画の主人公のような発言は、しばしばシニカルなものとして批判の対象にもなるが、この点は「鬼滅の刃」の登場人物である上弦の弐のキャラクター分析の機会に掘り下げたいと思う)。

 

社会がどのように共生をしてきたのか、またしているのか(これはおそらく、武器を一定のものまでしか売らないというギルドの約定にも関わってくるのではないかと考えられる)を考えなければ、上手く出し抜いた者が勝ちであるという人間が増えることは必定であり、それは社会を崩壊に導きかねないだろう。しかし一方で、ルールをただ守るべきものとして洗脳するだけでは、「そうなってはいない社会」の中で刷り込まれたルールに則りまともに生きようとして、壊れて死ぬだけである(あるいは、「無能な働き者」を量産するかだ)。

 

このように考えた時、他人を基本的に信頼せずルールを見抜いて生き延びたもの勝ちという思考の主人公マルに対し、弟のバツが利他的存在であること、そして主人公マルに共生のルールを説く武器屋の主人が繰り返しマルに手紙という形で語りかけてくる構造なのは興味深い。

 

というのも、この構造は「鬼滅の刃」でも触れた「鬼=絆を失った利己的存在、鬼滅隊周辺の人々=絆のために戦う利他的存在」という図式を思い出させるからだ(正確に言うと、マルは「肉親は信じている」という点で鬼とは異なっており、歴史的人物で言えば洪武帝朱元璋[まああそこまでの残虐性はないけど]に近い)。

 

これは「なぜ銅の剣~」が「鬼滅の刃」に影響を受けたとか、そんな浅薄な話をしたいのではない。少しレンジを広げると、そもそも鬼滅の刃の鬼はゼロ年代に流行ったバトロワ系(とにかく敵を出し抜いて生き残らねば!という世界観)の象徴と考えることもできる。そしてそのゼロ年代的なバトロワ系思考≒リバタリアン的(より正確には新自由主義)志向に対し、絆や利他を重視する鬼滅隊の人々はリベラリズムあるいはコミュニタリズムを志向する人々とおおよそ同値だとみなせるが、このような図式が描かれ、ともに評価されていることが時代を感じさせるという意味で私には興味深いのである(さらに言えば、「ひぐらしのなく頃に 業」は救済と奇跡を成し遂げる要因となった信頼と絆が呪縛へと転じる話であり、そこでは「絆も利己的思考への変形にすぎないのではないか?」と問い直されている点に注意を喚起しておきたい)。

 

ちなみに言うと、このような描写の先駆的作品は2011年に放映された「魔法少女まどか☆マギガ」であり、同作品はあの震災もあって「絆」の面に注目が集まりはしたものの、そもそもはソウルジェムによる搾取の歯車と一度足を踏み外したら元には戻れないという構造が根底にはあり、最終的に魔女と化した仲間と殺し合わねばならないという世界観であった(ちなみにそのような構造が描かれているからこそ、私は「この作品を見た後に何の衒いもなく英雄物語を書ける人間は、無知か恥知らずのどちらかに違いない」とさえ述べたのである。ちなみに、こういう「体よく社会に利用される英雄」というテーマは「なぜ銅の剣~」にももちろん登場するし、比較的古くから扱われてきたモチーフでもある)。エゴイズムや自己承認欲求のようなものだけでなく、利他から発された願いが少女を殺し合いの道具へと変え、最終的には少女同士の殺し合い=生き残り競争になっていくという点で、バトロワ系の完成版と呼べる内容だったと言えるだろう(ちなみに、「魔法少女まどか☆マギガ」のその「萌え絵」と言ってよい可愛らしい絵柄と、その殺伐とした世界の対称性は、ある意味日本という社会をこの上なく適切の表象しており、それが日本という国の幸福度の低さにも関連していると思うが、それはまた別の機会に述べたいと思う)。しかしご存知のように、そのバトロワ系的な話に終始することなく、最後は完全な自己犠牲と利他による救済という話に繋がっていく。

 

このような構造から、「魔法少女まどか☆マギガ」は「鬼滅の刃」、「ひぐらし 業」、「なぜ銅の剣~」的な作品のプロトタイプとしてみなすことができるし、「鬼滅の刃」はその一つの完成形を示した、と言う事ができるのではないだろうか(「ひぐらし 業」も同様に評価しうるかは、続編も見て慎重に判断したいところだ)。そして繰り返しになるが、こういった「生き残り競争」、「利己性」、「利他性」、「絆」などのテーマを、ここ最近高く評価されている作品で繰り返し取り上げられている点について、私は時代を象徴する現象として強調したいのである(ちなみにこの視点で「ヴァイオレットエヴァーガーデン」も見たいとは思っているが、現状まだ果たせずにいる)。

 

・・・というわけで、結局いつものような話に落ち着いたが(笑)、この話題は私が縷々述べている「人間への信頼が低下すれば(つまり絆を信頼しなくなれば)、たとえAIという不完全な『神』でも人間はそちらにコミットするようになる」といった話とも関連するので、また別の形で触れていきたいと思う。


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