昨日は「ベアトリーチェ」の交換可能性と「女性が主導権を握る構造」を結びつけて考えてみたわけだが、前作のひぐらしを知っている人であれば、この推論はそこまで荒唐無稽に聞こえなかったと思う。
ところでこの視点は、新たなる魔女エヴァ・ベアトリーチェの赤字を見る時、ますます重要なものに思えてくる。というのも彼女は、
この島には19人以上の人間はいない。
人間以外の生命は一切、このゲームに関係がない
人間以外の一切の要素は、このゲーム盤に関与しない!
と宣言しているからだ。これに以前の人数に関する記事を重ね合わせると、19人目の何者か(人間)がいて、それに操られる形なのかスタンドアローンなのかは不明にしても、女性達が入れ替わり生存者の主導権を握るという構造が想定できる。この二重構造が、事件を見えにくくしているのかもしれない。
とはいえ、この宣言がそれ以上に重大な意味を持つことはすぐに理解されるだろう。というのも、二番目・三番目の内容を見れば、どう考えても魔女、いや少なくとも魔法は存在し得ないからである。なるほど煉獄の七杭やロノウェは人の姿をしているというこじ付けに等しい反論が出るかもしれないが、山羊たちをそれで説明するのは全くのところ不可能であり、彼らの存在は魔女の赤字によって明確に否定されることになる(一つ目の赤字からすればロノウェたちも否定せざるをえない。あと考えられるとすれば、「家具」を人数カウントしないという可能性だが…)。このようにして魔法で召喚された者の存在が赤で否定される(=幻想と位置づけられる)なら、その拠って立つところの魔法もまた否定されたと考えるのが道理ではないか?さてそうなると、魔法が使えることを自分の存在証明のように位置づけていた魔女の存在も風前の灯火となる。これは戦人を追いつめるエヴァの驕りが招いた勇み足のようにも思える。
もっとも、逃げ道は二つある。すなわち、
1.エヴァは赤は真実のみを語るとも言っているが、その主語は「赤」なのか?
2.そもそも「魔女」、「魔法」の定義は?
というものだ。
前者についてもう少し説明すると、ベアトは序盤で妾には真実を赤で語る力があろうがッ!!!と言っているのに対し、こちらの赤字には主語が存在しない。普通に考えれば、赤一般という意味、ないしは「エヴァの」という修飾語の省略が想定されるのだが、一つの可能性として、この宣言の前には「ベアトの」という主語が省略されているとも考えられる。そうすると、そもそもエヴァの一連の赤字には「真実」という縛りがないということになる(「赤=真実」への疑問はロノウェにも共通する)。もっとも、この解釈があまりにひねくれているのも確かであり、嘉音を助ける時のベアトの「卑劣な」交換条件を考慮するとしても、いささか説得力に欠けるし、またエヴァの赤字が真実である必要が無いなら、あの赤の連発がいささか滑稽に過ぎる気はする。とはいえ、この問題は保留にしておく必要がありそうだ。
後者の方を考えてみると、ベアトは戦人に魔女たることを認めさせようと魔法を見せ付ける一方で、例えば第二話(だったか?)では真里亜に魔法が祈りとか願いであるかのような話をしている(「魔女が魔法を行使するのではない。魔女が、人以上の存在に奇跡の行使を祈るのだ」)。また第三話でエヴァが霧江をおびき出したのは「魔法」だとエヴァ自身は語っているが、おそらくこれは「頭のいいやつほど引っかかる」と言っていた秀吉のタバコを使ったワナだと推測される。これをエヴァは自分が魔女であることを認めさせるために「魔法」だと言ったわけだが、それはなるほど比喩としては正しいけれども、私達の考えている魔法のイメージ(オカルト)とは離れているように思う。これらの例から、「魔法=オカルト」として絶対に否定すべきものだと考えることには疑問が生まれる(要するに、ワルギリウスの言う「解釈」として冷静に見ていくことが必要だ、ということ)。
もっとも、あまり定義にこだわりすぎて、ひぐらしの神や薬の考察の二の轍を踏まないよう気をつける必要はある。ただそれにしても、「魔法=魔女=オカルト」という具合に位置づけて人為との対立項として絶対否定すべきもののようにカテゴライズしてしまうことは、ひぐらしの「人為100%」と同じ末路を辿るように思えてならない(人為で説明する努力・視点だったはずが、いつの間にかそれを護持するためにこじ付けを始める…)。魔法の定義に関する話について、最初は懐柔策(ミスリード)にすぎないと思っていたが、今度の赤字を見るにつけ定義を改めて考える必要性を感じているところである(ただし、「一般的にどうかではなく、うみねこがどう位置づけているか」を常に意識しなければ、結局薬品考察と同じ道を辿るわけだが…)。
少し話が大きくなったが、このような定義づけに改めて注意する必要がある。そしてまた、今回勇み足とも思えるエヴァの赤字から引き出したような作業が、第二話でベルンカステルが指摘したようなベアトの積みすぎによる綻びを発見する契機となりうることを期待しつつ、この記事を終えることにする。
ところでこの視点は、新たなる魔女エヴァ・ベアトリーチェの赤字を見る時、ますます重要なものに思えてくる。というのも彼女は、
この島には19人以上の人間はいない。
人間以外の生命は一切、このゲームに関係がない
人間以外の一切の要素は、このゲーム盤に関与しない!
と宣言しているからだ。これに以前の人数に関する記事を重ね合わせると、19人目の何者か(人間)がいて、それに操られる形なのかスタンドアローンなのかは不明にしても、女性達が入れ替わり生存者の主導権を握るという構造が想定できる。この二重構造が、事件を見えにくくしているのかもしれない。
とはいえ、この宣言がそれ以上に重大な意味を持つことはすぐに理解されるだろう。というのも、二番目・三番目の内容を見れば、どう考えても魔女、いや少なくとも魔法は存在し得ないからである。なるほど煉獄の七杭やロノウェは人の姿をしているというこじ付けに等しい反論が出るかもしれないが、山羊たちをそれで説明するのは全くのところ不可能であり、彼らの存在は魔女の赤字によって明確に否定されることになる(一つ目の赤字からすればロノウェたちも否定せざるをえない。あと考えられるとすれば、「家具」を人数カウントしないという可能性だが…)。このようにして魔法で召喚された者の存在が赤で否定される(=幻想と位置づけられる)なら、その拠って立つところの魔法もまた否定されたと考えるのが道理ではないか?さてそうなると、魔法が使えることを自分の存在証明のように位置づけていた魔女の存在も風前の灯火となる。これは戦人を追いつめるエヴァの驕りが招いた勇み足のようにも思える。
もっとも、逃げ道は二つある。すなわち、
1.エヴァは赤は真実のみを語るとも言っているが、その主語は「赤」なのか?
2.そもそも「魔女」、「魔法」の定義は?
というものだ。
前者についてもう少し説明すると、ベアトは序盤で妾には真実を赤で語る力があろうがッ!!!と言っているのに対し、こちらの赤字には主語が存在しない。普通に考えれば、赤一般という意味、ないしは「エヴァの」という修飾語の省略が想定されるのだが、一つの可能性として、この宣言の前には「ベアトの」という主語が省略されているとも考えられる。そうすると、そもそもエヴァの一連の赤字には「真実」という縛りがないということになる(「赤=真実」への疑問はロノウェにも共通する)。もっとも、この解釈があまりにひねくれているのも確かであり、嘉音を助ける時のベアトの「卑劣な」交換条件を考慮するとしても、いささか説得力に欠けるし、またエヴァの赤字が真実である必要が無いなら、あの赤の連発がいささか滑稽に過ぎる気はする。とはいえ、この問題は保留にしておく必要がありそうだ。
後者の方を考えてみると、ベアトは戦人に魔女たることを認めさせようと魔法を見せ付ける一方で、例えば第二話(だったか?)では真里亜に魔法が祈りとか願いであるかのような話をしている(「魔女が魔法を行使するのではない。魔女が、人以上の存在に奇跡の行使を祈るのだ」)。また第三話でエヴァが霧江をおびき出したのは「魔法」だとエヴァ自身は語っているが、おそらくこれは「頭のいいやつほど引っかかる」と言っていた秀吉のタバコを使ったワナだと推測される。これをエヴァは自分が魔女であることを認めさせるために「魔法」だと言ったわけだが、それはなるほど比喩としては正しいけれども、私達の考えている魔法のイメージ(オカルト)とは離れているように思う。これらの例から、「魔法=オカルト」として絶対に否定すべきものだと考えることには疑問が生まれる(要するに、ワルギリウスの言う「解釈」として冷静に見ていくことが必要だ、ということ)。
もっとも、あまり定義にこだわりすぎて、ひぐらしの神や薬の考察の二の轍を踏まないよう気をつける必要はある。ただそれにしても、「魔法=魔女=オカルト」という具合に位置づけて人為との対立項として絶対否定すべきもののようにカテゴライズしてしまうことは、ひぐらしの「人為100%」と同じ末路を辿るように思えてならない(人為で説明する努力・視点だったはずが、いつの間にかそれを護持するためにこじ付けを始める…)。魔法の定義に関する話について、最初は懐柔策(ミスリード)にすぎないと思っていたが、今度の赤字を見るにつけ定義を改めて考える必要性を感じているところである(ただし、「一般的にどうかではなく、うみねこがどう位置づけているか」を常に意識しなければ、結局薬品考察と同じ道を辿るわけだが…)。
少し話が大きくなったが、このような定義づけに改めて注意する必要がある。そしてまた、今回勇み足とも思えるエヴァの赤字から引き出したような作業が、第二話でベルンカステルが指摘したようなベアトの積みすぎによる綻びを発見する契機となりうることを期待しつつ、この記事を終えることにする。
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