神国思想の変遷に関する覚書:辺土としての日本、近代化の土台、科挙とフランス革命

2023-09-08 11:45:21 | フラグメント
昨日は神国思想の変遷に関する動画を通じ、それが中世では日本=インドの辺土として下に見る発想だったのものが、近世以降の変質で日本こそ神のいる特殊な国という今日言われるような発想に変化した(かつそれが近代に連続した)旨を述べた。これをさらに拡大し、神仏習合などを含め、今日使われている・考えられている枠組みを無批判に過去へ投影するとどんでもない思い違いをする危険性があるという話だった。
 
 
 
【覚書】
 
極端な自己否定と極端な自己肯定に走りやすい。(特に蒸気船開発以前は)「海により隔絶されている」という地理的事情のため、エコーチェンバー的に思想が増幅・拡大されやすい(逆に言えば、インターネットにおける言説の観察から指摘されるエコーチェンバーやサイバーカスケードといった傾向は、条件さえ整えば日本的構造はどこにでも生まれうるものことを示している。ただ、地理的閉鎖性→言語的・人種的・宗教的閉鎖性によって天然の閉鎖空間となりやすい日本は、その傾向が強く顕現しやすいという話→「空気」の研究)。
 
 
神仏集合は一日にしてならず。不断の変化をしてきたとは言わないまでも、様々な変質を遂げている。中世に本地衰弱説が成立。近世にはそれが逆転したこともあった。中世は仏が主で神はその下位互換。だから、仏教の源流たるインドから離れた日本は理想郷にはならない。むしろ辺土扱い(中華思想における東夷のことを想起)。
 
 
しかし、近世において神道が儒教と結び付きながらその相対的地位を高めると、「日本は特殊で素晴らしい国だ」という、我々の想起する神国思想が惹起する。このダイナミズムを正しく理解せよ。そしてこのような発想が仏教を統治のために国境化した江戸時代に吉田神道や平田神学、国学や水戸学を通じて知識人層の中で精錬されていき、後には平泉澄らの皇国史観に繋がるという事態の変化・複雑性に留意せよ。
 
 
その意味の大きさは、喧嘩両成敗の誕生でも指摘した中世と近世の断絶という視点でも有意義であり、と同時に近世から明治政府への連続性、つまり「なぜ日本はアジアにおいていち早く近代化できたのか」という問いへの一つの有力な要素と言えるのではないか(その他有名な要素は、ロバート・ベラーが『徳川時代の宗教』で唱えた、町人階級のエートスとプロテスタンティズムとのアナロジーなど)。
 
 
後期水戸学の構造。下級武士たる藤田東湖や会沢正志斎→徳川斉昭の力あるものは身分に関係なく登用すべしという政策→維新的発想の土台(吉田松陰が会沢に深く影響を受けたといった連続性はもちろん、倒幕派たちの多くが下級武士出身だったことを想起)→階級社会の否定を通じた近代市民社会への接続を可能にした。もちろん、明治政府は「四民平等」を唱えたが、華族やそれにまつわる生活保障や藩閥政治の存在などで、実態として機会の平等が保証されていたわけではないが、理念系としてはそのような発想が根幹に据えられたということである(諸々の士族反乱や自由民権運動の素地)。あくまで「天皇」という装置を否定しない限りは、だが。
 
 
参考までに述べれば、康熙帝に仕えたイエズス会史のブーブェなどを通じて科挙=実力主義のような制度を知り、そこに憧れた啓蒙思想家たちによるアンシャンレジーム・特権階級へのは反発は、後にフランス革命の下地となったことが思い出される(もちろんこれも単線的な話ではなく、リスボン地震の記事などで触れた宗教的世界観・迷信の相対化と、科学的思考や啓蒙思想の強化といった現象も影響していることに注意)。
 
 
なお、言葉の中身の変化に無頓着であることの弊害は、例えば「憲法十七条」をもって「日本は最古の立憲国家」と言うようなものだ。我々が想起する憲法とは、飛鳥時代よりも1000年以上後に外来のconstitutionという言葉へ「憲法」という既存の漢語を当てはめただけであり、役人や貴族の心得を定めたに過ぎない憲法十七条とは全く異質で、漢語が同じというだけで中身を見ずに同一視するのは、言葉遊びぐらいの意識ならともかく、それを信じているのだとしたら不見識極まりないと言える。

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