昨日は近畿(エル・トゥールル号事件)の話を書いたので、今日は四国について取り上げたいと思う。自分は四国を旅したことは二回あるが、本格的に周遊したのは五年前のことで、「香川→愛媛→高知→徳島→香川」というルートであった。その際、金毘羅山やそこへの巡礼について知る機会があったのだが、それが江戸時代に爆発的ブームとなり、その恩恵(観光業)が讃岐丸亀藩の財政を支えたというのは事後的に知った次第である。
で、なぜ今回それを取り上げたかと言うと、江戸時代の寺社詣で(あるいは意図的に軽く表現するなら「巡礼ツーリズム」)というのは、日本人の宗教的帰属意識に興味を持つ自分としては、重要なテーマの一つであるからだ。
日本人の無宗教(宗教的帰属意識の欠落)について考察する際に、江戸時代というのは重要な契機になった可能性が高いと考えている。というのも、檀家制度によって仏教がある種の「国教」となっただけでなく、宗門人別改帳のような形で役所と同じような「システム」として形式化(いわゆる「葬式仏教」などと呼ばれる)し、それが宗教的帰属意識の希釈化につながったと予測しているからだ。
こうして希釈化された帰属意識は、明治維新における神仏分離と廃仏毀釈、仏教優遇の廃止、近代化の中でますます薄まっていき、それが数値として表れたのが1952年の読売新聞による全国世論調査(層化任意標本抽出法で3002名を選出し、2572人の有効回答数を得たもの)であった。
すなわち、全体の中で「あなた自身の信じている宗教は何ですか」という項目に対し、仏教と答えている人が54.4%なのに対し、「家の宗教」が仏教と答えている人は全体の89.3%にも及んだのである。注意すべきは、「自身の信じている宗教」では「なし」(つまり「無宗教」と言っていいだろう)が35.3%であるのに対し、「家の宗教」では「なし」が4.6%なので、仏教に対する個人と家の宗教の認識の落差は、ほぼ「自分は宗教的帰属意識を持っていないが、家自体は仏教を信仰している人の数」と言い換えることができる。またそうすると、その後に観察される宗教的帰属意識の下降は、特に仏教に注目すべきであるという結論が必然的に導き出されるのである(だからこそ、神道の無宗教化を日本人の無宗教の原因であるとする阿満利麿のような言説に対し、それが一因をなしたとしても主要因とは言い難い、と私には思えるのである)。
とまあいつもの話(笑)をしたところで。
しかしながら、以上のことをもって、「江戸時代は宗教が形骸化し、信仰心がひたすらに希釈化される時代だった」と断じるのは性急なように思える(まあ「信仰心」と「宗教的帰属意識」の関係性っていうのは非常に難しいテーマなので、ここで扱うにはとても不可能なのだけど)。
というのも、今回取り上げた金毘羅参りやお伊勢参り(など)が反証となりうるか吟味が必要だからだ。それらの状況を見るに、宗教的熱意に突き動かされての行為というよりはむしろ、ビッグイベントやツーリズムと呼ぶべき面があったとは感じるが、一方で「伊勢講」のようにお伊勢参りのための相互扶助システムすら存在していたことは、その行為に一方ならぬ熱意とそれを周囲が共有していたこともまた否定できない事実であるように思える(この「共有」という点において、アンダーソンが『想像の共同体』で記した、国民国家以前の同朋意識のあり方を想起するのも有益だろう)。
とはいえ、その熱意を宗教的帰属意識と直結させられるのだろうか?なるほど私がそれなりの資金を投じてケルン大聖堂を訪れたからといって、クリスチャンということにはならない。また、スレイマニエ・モスクを訪れたからといってムスリムということにも当然ならない。なるほど霊験あらたかな地を訪れることやそのご利益に意味を見出すという観点であれば、金毘羅参りやお伊勢参りはサンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼やメッカ巡礼と同質だ、という意見が出るかもしれないが、ではそれは現代のパワースポット巡り(そこには宗教的帰属意識は希薄である)とは違うのだろうか?
という具合である。この他にも、「居住地周辺にある神社への帰属意識はどの程度あったのか?」、あるいは「神仏習合ということで仏教への帰属意識が形式化する中、神道へのそれも同じく希釈化されていったのか?」といった問題提起をすることもできるだろう(あと今回取り上げてないが、四国と言えば八十八箇所も有名)。
ともあれ、無宗教という自己認識、すなわち宗教的帰属意識の欠落は、複雑な要素が時に独立し、時に絡まり合いながら進行していったことはほぼ疑いないと考える(逆に言えば、ある一つの出来事やある年代を境にして一気に無宗教が支配的になったと考えるのは、中世の絵画とルネサンスの絵画について述べた記事でも触れたが、ヨーロッパ中世のカテゴリーが終わった翌日から突如ヨーロッパ近世が始まりみなの意識も変貌した、と考えるのと同じくらいに馬鹿げている)。
そんな複雑な意識の変容の一コマとして金毘羅参りの様を調べてみたい、と思う今日この頃である。
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