2010/9/23 フラグメント139の続き
<よつばと>
作者のコメントの裏側にあるもの。アニメが漫画に対して忠実・写実的である必要なし。もしあの世界が葛藤や屈折など諸々のノイズを意図的に排除していることに作者が無自覚なら、それはとても恐ろしいこと。子供は天使じゃない。ノイズ耐性の低下は極端な反応を生み、それがまた楽園の描写を要求するという悪循環。単に「夢を壊すな」という人間にはその構造が見えてないのか?絶望への手当てが必要であることと、自己肯定の羊水に浸るのはわけが違う。切り取り方の問題だから作風は否定しない。ニュータウンと郊外型犯罪。ノイズの排除は「楽園」にならなかった。印象間違い。アホでマヌケな大統領選。麻薬入りの飼料しか喰えなくなったなら、それは果たして「人間」と称すべき存在なのか否か。メタ→抑圧的モデルの有効な社会と、解離的モデルの有効な社会が存在しているだけかも。
<よつばと2>
もちろん、これを作家だけの問題に帰するのは見当違い。そういう構造・作風へのニーズがあるからこそ、ノイズの排除された予定調和が量産される。ただ、その欲望に応えることが読者を悲劇的なサイクルに追い込んでいくかもしれない、ということに自覚的なのかどうか。葛藤や屈託を描かなければならない、と言いたいのではない。よつばがいつの間にか受け入れられている。「外人だ」と言われていじめられたり、自分の出自を思い悩んだりはしない。同い年なら(髪の色とか含めて)ストレートに聞く。子供ゆえの「残酷さ」。年上との関係のみに囲い込んで巧みにノイズを排除している→単純に批判はできない。排除と包摂、可能性と限界をそれぞれ見極めるべき。受容環境についてのこと。 「日本的想像力の未来」。
<よつばと3 ディズニー的>
風香の失恋話も相手が登場しないことで和らげられる。聞き手がよつばで反応ズレる、母や姉がネタにする。むしろ描きながらうまくネタにする→自覚的。お前の魅力がわからんヤツのことなど忘れて俺の嫁になりなさい、といくらでもネタにできるが(笑)、そのように描かれる背景、あるいは何が描かれていないのかに思いを致した上で言っているんよね?適度に葛藤や挫折を入れる程度には手が込んだノイズの排除。描かれるのは異質なものへの寛容さ(それは重要)。しかし、現実にそれで寛容さを醸成するのか?都合のいい存在などではありえない他者(ノイズ)を受け入れられるのか?信教の自由が「上からの恩恵」でしかない社会で、か?車内暴力を含めたキレる(=戦略性ない感情発露)行為は調和の対極なのではなく、(病的)ノイズ排除という点で同類。その立脚点が集団なのか個人なのか、という違いにすぎない。
<ボロンゴの花嫁、クーロ君アニメカノンも>
戦略的なものが教場主義的なものに堕する→枠組みを不断に問い掛ける再帰的思考ができないから→なぜ再帰的思考ができないか?→やる必要のない環境に育ってるから。汝何者かとディープに問われることはなく、応答する機会も必要もない。むしろ、キャラとして無害化された上で集団の中に組み込まることを要求される。承認の渇望という強迫性ゆえに成立し、実態がない。そもそもなぜ「空気」を乱すべきでないのか不明(裸の王様)→実りがないことに「まじめ」なヤツほど気付く→尊厳を求めない榊原的誕生の必然(行為は肯定せんが、生まれる構造的必然あり)。それでも従う者たちの不全感、不全感、不全感・・・これに反発しても構造は理解していないから、空気マンの反動で「とにかく何でも主張すればいい」という白痴が出てくる。
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