娘に納豆を持っていったが、「納豆だけで食べるのはいやだけど納豆オムレツならうまいんだな」と言って、作ってくれた納豆オムレツです。 ケチャップ味とまたよく合うんだなー。それで「うまい」ということかー。
春野では納豆をご飯にかけて食べるのが定番だったから新鮮でした。 料理も柔らかい脳髄が必要ですね。 究極の発酵食品をおいしく食べることが必要ですね。
娘に納豆を持っていったが、「納豆だけで食べるのはいやだけど納豆オムレツならうまいんだな」と言って、作ってくれた納豆オムレツです。 ケチャップ味とまたよく合うんだなー。それで「うまい」ということかー。
春野では納豆をご飯にかけて食べるのが定番だったから新鮮でした。 料理も柔らかい脳髄が必要ですね。 究極の発酵食品をおいしく食べることが必要ですね。
川崎の実家にもどったときのすきまには、美術館・博物館や映画に行くことにしている。やっと、時間が取れたので話題の映画のはしごをすることになった。
「太平洋の奇跡」は、戦時中サイパン島でおきた実話をもとにした映画だ。 殲滅寸前の日本軍だったが米軍を攪乱した大場大尉率いる部隊は、米軍からフォックスと呼ばれ敬意さえはらわれながら戦闘が行われたという。
その大尉の現状把握力の的確さは、多くの軍人と民間人の命を救った。 竹野内豊は、すべてにまるでイチローのような毅然とした態度を好演していた。 戦後生まれが作った戦争映画であるが、アメリカとの対等な映画作りがすばらしい。
唐沢寿明のやくざっぽい一等兵が竹野内と対照的なキャラクターを好演していた。 日本の映画にしては戦闘場面もじつにリアリティーがあった。 大場大尉の存在がアメリカ人によって発掘されたことがすごい。
前評判どおり、矢吹丈の山下智久と力石徹の伊勢谷友介の肉体トレーニングの成果が画面に反映されている。 迫力満点の拳闘シーンもみどころであるのは言うまでもない。 この映画の真骨頂がここにある。
終戦直後GHQと対等に交渉したモダンボーイ白州次郎を好演した伊勢谷友介が汗臭い力石を演じるというのも楽しみだったし、見事それを演じきった。また、ドヤ街の描写や人物像もすばらしい。 丹下段平役の香川照之がまたうまい。彼は何をやらせてもうまい。
欲を言えば、山下智久の動物的なすさみがもっとほしい気がした。 凄みと優しさとをもっと表現できたらと思うが、精一杯やった努力は伝わってくる。
あしたのジョーはわれわれの世代とおなじ時代背景を歩いてきた。 それは「戦後の混迷」への異議申し立てであったり、青春の挫折だったりして、ジョーの姿に自分の姿を発見し共感したものだった。 毎週連載のマンガが待ち遠しかった。 それは、自分に対しても家族に対しても社会に対しても怒りの矛先を逡巡しているとき、ジョーはわれら弱き者のヒーローだった。
このところちょくちょく川崎の実家に帰ることが多くなってしまった。 一昨日の雪はあっというまの降雪だった。 雪の中の帰還でなかったのが幸い。安心して高速道路を疾駆できたのがラッキー。
久しぶりに雪かきをした。 近所の人たちもそぞろに出てきて共同作業しながら短い言葉を交わす。 これがとても大切なことだ。
地域の共同作業がなくなっていくと「無縁社会」がのし上がっていくからだ。 面倒くさいことを排除したつけがそれぞれの心に染み込んでいく。 やはり、地域の共同作業は残しておいたほうがよい。その意味では、田舎の共同体をもう一度見直さなければならない。
雪かきしたそばから車が行き交いきれいにしたところが崩れていく。 見上げれば空は完璧なマリンブルーで独占されている。
フツーならゴミ箱入りの箒。 家の入り口近くにあった孤高の箒。 いまだ現役中とはマイッター。
「捨てる文化」謳歌の時代に抗して、孤軍を守る箒に明日があるのだろうか。
でもきっと、これでなければうまく掃けない理由があるのだろう。
昨日の朝のこと、外を出てみると茶畑は幻想的な銀世界だった。 前日の粉雪やあられ、霜などの寒気がチャノキを襲っているのだが、チャノキは敢然と耐えているかのようだ。 いやむしろ、寒さに毅然と立ち向かっていて、それが凛とした風景を生んでいる。
朝の光が茶畑にスポットライトをあてている。 茶葉はきっとこの寒さの中でしっかり旨味成分を醸成しているに違いない。
山里のお茶の美味さは、こうした自然の厳しさと優しさとのハーモニーにある。
わが集落の女性部が主催する「そば会」が公民館で行われた。
午前中にめいめいでそば打ちを挑戦。 準備や買出しも集落の女性が活躍。 昨日も無縁社会が喧伝されるなかで、ここではある意味では緻密な「血・地縁」社会が健在である。 矛盾もあるが、こうした前向きな取り組みがふだんの生活のなかにあることの意味が大きい。
先生もいないなか、悪戦苦闘しながら、そば100%のそばを子どもも大人もつくり、昼前には約30人くらいで食事。 午後はみんなが楽しみにしているビンゴ大会。 景品は100円ショップもどきのものだが、この過疎では潤いのあるひと時となっている。
一日かかったが、きょうで壁張りは終了となった。
とりわけ三角型に木材を斜めに切っていく作業は自信がなかった。 そこに登場したのがリョービの「切断機」だ。 これは斜め切りが正確にできる代物だ。 のこぎりだとなかなか正確に切れなくて過去ではなんども失敗を繰り返していた。
板の一枚の長さがそれぞれ違うので、一枚一枚測りながら切っていく。
廃材を使ってついに完成。 すきま風もずいぶん入らなくなった。 化粧ベニヤ3枚ほどを使う予定だったが、廃材のおかげで約6000円ほど節約できたというわけだ。
外は粉雪だったり霰だったり、雨だったりだったので、室内作業はいいタイミングだ。 次は棚作りになるが、さすがに使いたい材木が足らない。 春が近づいているので至急作りたいのだが。
製材所で拾ってきた端材に防腐剤を塗って二番目の壁を作り始めたところです。
木材の表面はカンナでをかけていないのでザラザラですが、防腐剤でなんとかカバー(誤魔化した)したつもりです。 あらためて、捨てる前に活用を考えなきゃーと思いました。
というのも、きょうのNHKTVスペシャル「無縁社会」ドキュメンタリーを見て、人間も同じなんだなーと痛感したのです。
ひとり暮らしであっても、たとえ家庭や職場があっても、人間の孤独はなかなか解凍しがたいものです。 それを解凍するものは、「声かけ」であり、人とのつながりですね。 さらに言えば、大地と自然との会話、(つまりは田舎暮らしが癒し薬)ではないかと思うのです。
そのことをいま、過疎というある意味では過酷な環境の中にいる自分をみて、痛感させられています。
きょうは地域でコンサートを主催しようという打合せに参画しましたが、知り合いがまったくいなかった自分にこれだけのつながりが短期間でできたのも、生きていくうえでひとや自然というものがいかに切実なものかという証でもあります。
狭い部屋で人と会話せずにひとり壁を打ちつけていられるのも、こうした存在が支えになっているんですね。 自分の居場所は待っていても向こうからは来ません。 やはり、それを見つけようとする格闘のなかから、しぜんに見出されてくるものだと思います。
そんな思いをめぐらしながら、あすもまた、壁打ちが続きます。
「煙突を掃除しておかないと火事になるぞよ」と和宮様から注意・命令があり、さっそくしこしこと始めました。 このところ、煙が室内に充満してしまうので「煙突掃除をしなくちゃー」と思っていた矢先でした。
煙突をのぞいてみたら、動脈硬化の欠陥のように煤がこびりついていました。
薪は杉の木材がほとんどなので、広葉樹より煤がつきやすいそうです。 煙突用のタワシを強く押し上げたため、先端の煙突が外れてしまいました。 いやはや、想定外のことがまたまた起きます。
午前中は町内の良心的な歯医者に行き、午後は部屋の壁張りを一部完成。
相変わらず、寸法が合わないので、現状に合わせながらベニヤを張っていきます。 つまり、ごまかしながら、なだめながら、打ちつけるのですが、ベニヤを張る前がいちばん時間がかかるのです。
昨日、製材所から木の端材をもらってきたのが役に立ちました。 いろいろな厚さの木材があるとまちまちの寸法がそれでうまくフィットしてしまうところが、じつは醍醐味なんです。 そうした木材探しに時間がかかるのです。
あと2箇所の壁を打ちつければ、壁は完了です。 ゴールが見えてきました。 なんとか、春が来る前に完成しなくちゃね。 そうそう、食器を置く棚も作らなきゃいけないんだー。