八月は、暑さの為に暫くは夏休みとして出かけるつもりは無かったのだが、ここの所の毎日の曇天なら暑さも厳しくないだろうと、出かけてみようかという気持ちになり、板倉町から松田町周辺へ出かけた。
そして最初に訪れたのが、上記に掲載した板倉町の羽黒山神社・六之丞八幡宮です。この百姓一揆事件は、寛保三年(1743)の出来事で、河内国高木若狭守侯の別封であった当時の農民の飢饉に対しての対応に不満を募らせた百姓達が、五十部(ヨベ)村にあった代官屋敷まで直訴に出向いたが、それを阻止しようとした堀江六之丞を、代官ではこの一揆の主唱者と看做されて牢に入れ、拷問を受けた上で斬首されてしまったことです。その事件のあらましを、昭和五年に記して建立したものです。サイズは、高さが133センチと小ぶりなので、拓本を採るには手ごろな石碑なのだが、現地へ行ってみるとそこは1センチ以上もある薮蚊の大群が乱舞している場所だった。半袖の吾身にとっては最悪の環境!。この碑の前で、手拓すべきかヨクヨクと考える。しかし、はるばる宇都宮から目的を持って来たからには、薮蚊が恐ろしくて退散したとは自分の名折れ。取りあえずは、タオルを水に浸してそれを広げて振り回しながら、周囲の薮蚊を撃退してから急いで碑面の水洗い。しかし、直ぐに私の体温と汗の臭いを嗅いだ周囲の藪かが群れとなってやって来て何にもならない。今度は、タオルを水に浸してから肌の出ている首や腕に巻きつけて、刺される箇所を最小限に留めたつもりで画仙紙の水張り。そんな対策もむなしく、薮蚊は身体にむさぼり付く。そしてその被害は墨入れの時に訪れ、画仙紙にタンポを打つ回数と同じくらい、身体に止まった薮蚊を叩き落すことになる。そのために、墨入れが終わったときにはタンポで薮蚊を叩いた全身(半袖やズボンに、肌の出ている腕等)は油墨で真っ黒。それはまさしく、乞食以上の姿であった。勿論、手拓が終わって直ぐにしたのは、バケツに入れてきた水を使って肌に付いた墨とズボンの墨落とし。お陰で、それでなくても汗でびしょぬれのズボンは益々濡れてしまったが‥。
普段なら1時間もあれば採れる手拓時間は、その倍の2時間を要す羽目になってしまったし、蚊に刺された箇所は数え切れない。今日こうしている今も、薮蚊に刺された痕が腕のあちこちに赤い斑点となって残っている。当地を脱出して車に戻り、直ぐに持ってきた氷で冷やし、清水で薮蚊に刺された箇所を綺麗に拭いてから、やはり持参している薬を塗ったのだが、それでも痕はあと数日残ることになるのだろう。
その後は、松田町の板倉神社へ行って一休み兼昼食。薮蚊に対する対策が効いたのか、痒みはなくなり、腫れも引いてきたのを良いことに、境内にある2基の石碑調査に入る。しかし、その2基の碑は、余りにも碑面が酷い状態。拓本どころの話ではなく、碑面掃除の段階である。脇を流れる疎水を紐をつけたバケツで汲んでは何度も碑面にぶっ掛け、タワシで丁寧に掃除する。時には、勢い余った水が碑面に跳ね返って、こちらまでずぶ濡れ。それを何度繰り返したことか!。そうこうして、石碑と水汲み、碑面掃除に時間を費やすこと2時間半、既に時計は3時を過ぎているので、今日の拓本採りは諦め、綺麗になった石碑2基の写真を撮ったり、基礎データを筆記したりしてから、馬打峠経由で月谷町へ出て、「やはり出かけてよかった。次回の手拓が楽しみだ」と、それまでの苦労を忘れて帰路に着く。