一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『スポットライト 世紀のスクープ』 ……巨悪に挑む記者魂を描いた傑作……

2016年04月27日 | 映画
2002年1月、
アメリカ東部の新聞『ボストン・グローブ』の一面に、
全米を震撼させる記事が掲載された。
それは、
ボストンのカトリック教会での、
数十人もの神父による「児童への性的虐待」という衝撃のスキャンダル。
1000人以上が被害を受けたとされるその許されざる罪は、
カトリック教会が組織ぐるみで隠蔽していたという。
この世界中を驚かせた"世紀のスクープ"の内幕を、
取材に当たった新聞記者の目線で克明に描き、
第88回米アカデミー賞6部門(作品賞/監督賞/助演男優賞/助演女優賞/脚本賞/編集賞)にノミネートされ、
作品賞と脚本賞を受賞したのが、
映画『スポットライト 世紀のスクープ』である。

4月15日に公開された映画であるが、
九州で唯一、佐賀県での上映がなかった。
とても見たい作品だったので、
〈福岡まで見にいかなくては……〉
と思っていたが、
なかなかその機会に恵まれなかった。
その後、佐賀県での上映も決まったのだが、
公開されるのは、5月下旬とのこと。
さらに1か月も待つことはできないので、
天気予報で「一日中、雨」の今日、
福岡まで見に行くことにしたのだった。

いつもは天神にあるソラリアシネマで見るのだが、
12:00からの上映だったので、
9:00からの上映があるTジョイ博多へ行った。

2001年の夏、
『ボストン・グローブ』紙に、
新しい編集局長のマーティ・バロン(リーヴ・シュレイバー)が着任する。


マイアミからやってきたアウトサイダーのバロンは、
地元出身の誰もがタブー視するカトリック教会の権威にひるまず、
ある神父による性的虐待事件を詳しく掘り下げる方針を打ち出す。
その担当を命じられたのは、
独自の極秘調査に基づく特集記事欄《スポットライト》を手がける4人の記者たち。
デスクのウォルター"ロビー"ロビンソン(マイケル・キートン)、


マイク・レゼンデス(マーク・ラファロ)、


サーシャ・ファイファー(レイチェル・マクアダムス)、


マット・キャロル(ブライアン・ダーシー・ジェームズ)。


彼らは、事件の被害者や弁護士らへの地道な取材を積み重ね、
大勢の神父が同様の罪を犯しているおぞましい実態と、
その背後に教会の隠蔽システムが存在する疑惑を探り当てる。
やがて9.11同時多発テロ発生による一時中断を余儀なくされながらも、
チームは一丸となって教会の罪を暴くために闘い続けるのだった……



公開日(4月15日)から10日以上も遅れて本作を鑑賞したことを後悔した。
もっと早くに見るべきであった。
そんな気持ちにさせてくれる映画は、それほど多くはない。
『スポットライト 世紀のスクープ』は、
そんな気持ちにさせてくれた稀有な作品であった。

地味な映画であった。
派手なシーンはまったくない。
記者たちは、こつこつと歩き回り、


丹念に取材し、事実を積み上げていく。


この中にスター記者はいない。
地味な記者たちが、
闇の中に隠れていた真実を見つけ出し、
暴いていく。
記者たちも地味だし、その行動も地味なのだが、
巨悪が暴かれていくその過程は実にスリリングで、刺激的だった。
不謹慎な言い方かもしれないが、面白かった。
128分、まったく退屈しなかった。


90人近い神父によって、
1000人以上が被害を受けたとされる「児童への性的虐待」を、
カトリック教会が組織ぐるみで隠蔽していたという衝撃のスキャンダル。
「性的虐待」とは、
要するに、幼児や子供への「レイプ」である。
中には3歳の幼児も含まれていたという。
被害者の多くは、
後に、精神に異常をきたしたり、
自殺している。
“生き残り”(映画ではそう表現していた)の被害者に、
『ボストン・グローブ』紙の記者たちは、根気よく取材する。
様々な障害が立ちはだかり、幾多の妨害に遭いながらも、
それらに負けることなく取材を続ける。
そんな『ボストン・グローブ』紙の記者たちの物語は、
実話ゆえに、見る者は心を揺さぶられる。
これぞ、記者魂、
これぞ、ジャーナリスト魂と思わされる。
はたして、これほどのジャーナリスト魂を持った記者が、
今の日本の新聞社にどれほどいるだろうか……

私は、現在、地方紙を宅配してもらい購読しているが、
最近は、
〈購読をやめてもいいかな……〉
と、思い始めている。
それほどに紙面に内容がない。
スクープ記事など皆無に等しい。
どうでもいいような記事ばかり。
購読者が高齢化したためか、活字は大きくなり、
それにしたがって情報量は減り、
内容もスカスカ。
地方面以外の全国ニュースは、ネットで見たニュース記事とほぼ同じ。
24時間遅れでそれを読まされる。
広告の頁だけが増大し、
1頁まるまる広告面というのが何頁もある。
アダルト雑誌の広告かと見まがうような精力剤の広告も、
最近では珍しいことではなくなった。
職場の若い人に訊いても、
新聞を取っていない(購読していない)人がものすごく多くなった。
極私的にではあるが、
〈新聞が消え去るのは時間の問題かもしれない……〉
と、思っている今日この頃。(笑)

そんな日本の新聞(記者)とは違い、
『ボストン・グローブ』紙の記者たちの、なんと逞しく、魅力的なことか……
購読者の50パーセント以上がカトリック教徒という『ボストン・グローブ』紙で、
カトリック教会を敵に回すような記事を書くのである。
購読者数が減るかもしれないというリスクを冒してまでも、
真実を追求する。
記者たち本人、その家族や親類にもカトリック教徒は多いのだが、
それでも記者たちは追求の手を緩めない。
神父個人ではなく、教会の罪を明らかにする。
神父個人の罪を暴いただけでは「児童への性的虐待」はなくならないからだ。
隠蔽した教会の罪を暴かなければ「児童への性的虐待」はなくならないのだ。
単なるスクープではなく、
犯罪を壊滅させようという、その姿勢に心を揺さぶられる。
このスクープによって、
ボストンだけでなく、
世界中のカトリック教会の「児童への性的虐待」が明らかになり、
その数は10000件を超えたという。

カトリック教会は、最初は否定していたらしい。
だが、次々と訴訟になり、
アメリカだけで3000件を超えるようなすさまじい数になった。
それが世界中に広がり、
どうしようもなくなり、
ローマ法王、そしてバチカンもそれを認めざるを得なくなった。
その後、
「カトリック教会の反応」として、
以下のようなことがあったという。(Wikipediaより引用)

バチカン放送のコメンテーターは映画を「誠実」「力強い」と讃え、
『グローブ』紙の報道こそが米カトリック教会に、
「罪を完全に受け入れ、それを公に認め、すべての責任を取る」
ことを促したのだと述べた。
ルカ・ペレグリーニは、
バチカン放送の電子版で映画を讃え、
「ボストン大司教区のカトリック教会の基盤を崩壊に陥れたのは、テロ攻撃ではなく、とどまるところを知らない真実の力だった。事実、最も純粋な召命の形を示して見せたのは、紛れもなく『ボストン・グローブ』の数名の有能なジャーナリストたちである。その召命とは、事実を探し出し、情報源を調べ上げ、コミュニティと街のために自らを正義のパラディンとすることだった」
と記した。
2016年2月には聖職者による性的虐待に関するバチカンの委員会で映画が上映された。
バチカンの日刊紙『オッセルヴァトーレ・ロマーノ』は、
本作のアカデミー作品賞受賞を受け、
「反カトリック的な映画ではない」
「同作は、敬虔な人々がこうした恐ろしい現実の発見に対峙したときの衝撃と絶大な痛みを表現することに成功している」
とするコラムを掲載した。


このように、『スポットライト 世紀のスクープ』は、
カトリック教会も認めた(認めざるを得なくなった?)映画なのだ。

新しい編集局長のマーティ・バロン(リーヴ・シュレイバー)、


ベテランの部長のベン・ブラッドリー・Jr.(ジョン・スラッテリー)、


常に冷静な《スポットライト》チームのリーダー、ウォルター“ロビー”ロビンソン(マイケル・キートン)、


行動力抜群の熱血記者マイク・レゼンデス(マーク・ラファロ)、


地道で粘り強い取材を身上とするチームの紅一点サーシャ・ファイファー(レイチェル・マクアダムス)、


データ分析担当のマット・キャロル(ブライアン・ダーシー・ジェームズ)、


映画では、この主要6名が、
それぞれに、実に好い演技をしていたが、
この中では特に、サーシャ・ファイファーを演じた、
レイチェル・マクアダムス(個人的に大好き!)が印象に残った。


レイチェル・マクアダムスといえば、
日本では2014年に公開された(アメリカ公開は2013年)、
映画『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』(←クリック)
が思い出される。
この作品も素晴らしい作品だったし、
今回の『スポットライト 世紀のスクープ』も同じく傑作だったので、
レイチェル・マクアダムスの出演作として、
両作共、私の心の中に、いつまでも消えずに残ることであろう。


《スポットライト》が報じたこの調査報道は、
2003年に栄えあるピューリッツァー賞(公益部門)を受賞し、
それを映画化した『スポットライト 世紀のスクープ』は、
米アカデミー賞の作品賞と脚本賞を受賞した。


一方、日本では、
このような調査報道の記事が出ることもないだろうし、
そのような映画が制作されることもないだろう。
もし、そのような映画が制作されても、
日本アカデミー賞の作品賞を受賞することは更にないであろう。
ここ数年の日本アカデミー賞の茶番劇を見せられる度に、
絶望感に襲われている私である。


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