レスラー
2008年/アメリカ
‘敢闘賞’という評価について
総合
30点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
2008年の第65回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得した作品で、称賛しているレビューしか見たことがないとしたら誰でも多大な期待を持ってこの作品を観ることになるだろう。
まずはこの作品に関する典型的なレビューを紹介しておこう。週刊新潮7月2日特大号の‘福田和也の世間の値打ち「‘中高年のリアリティ’滲み出る映画『レスラー』(連載第353回 P.140-P.141)」’において福田氏は「設定はミッキー・ロークと丸っきり被る」「それが映画に説得力を与えているのは間違いない」「ロークの人生とのダブりもこめて、ドキュメンタリー的要素も強い」として、「滲み出る‘中高年のリアリティ’は90点」「56歳になった‘おひさしぶり’ミッキー・ロークの熱演度80点」としている。他のレビューも似たり寄ったりで、要するに映画そのものよりも、ミッキー・ロークを褒め称えているものばかりである。
ミッキー・ロークの熱演は認めるが、物語自体はどうなのだろうか? 特に私のように他のミッキー・ロークの作品を観たことがない人間にとっては、これほどまでにまるで業界挙げてミッキー・ロークを‘崇めている’ことに気持ち悪さを感じてしまう。
冷静になってこの物語の筋を辿っていくと、家庭を顧みることなく自分の好きなプロレスリングに勤しみ、体を壊したから疎遠だった娘のステファニーとの関係を修復しようと試みたが失敗してしまい、生活に困っていたランディをアルバイトとして雇っていたスーパーマーケットの食品売り場でワザと指を切って大げさに騒ぎ、食品売り場に‘致命傷’を負わせて恩を仇で返してしまい、結局何も問題が解決されないままリングの上で死ぬ決心をするだけである。
ミッキー・ロークを知らない人間がこんな我儘な男のストーリーでどのように感動しろというのだろうか? 例えばミッキー・ロークが体を絞って若い栄光の時代も演じたのであるのならば、それなりの評価も出来ようが、栄光の時代は新聞記事でスルーしてしまっている。
要するにこの作品を称賛している人たちの評価は、昔は男前で鳴らしていた男が年老いてすっかり落ちぶれてしまったけれども、必死で頑張って男の生き様を見せたという‘敢闘賞’的なものだと思う。残念なことに私の映画の評価に‘敢闘賞’というものはない。いくら頑張ってもダメなものはダメである。そのような‘マッチョ’なものの考え方が私は生理的にダメなのである。
本当にミッキー・ロークのドキュメンタリー的な作品にするのであるのならば、‘レスラー’ではなく‘ボクサー’にして、作品冒頭に日本での‘伝説の試合’の映像をそのまま利用すれば面白いものになっていたと思う。
自民幹部、政権の“失点”否定 「麻生降ろし」の声も(共同通信) - goo ニュース
静岡県知事選での推薦候補の敗北に関して「県民の選択。国政の影響と考える
のは県民に失礼だ」という細田博之の発言は意味が分からない。国政の影響と
考えることが県民に失礼ならば、そもそも自民党が知事選の立候補者を推薦する
こと自体が失礼に当たる事になってしまうであろうし、候補者を応援に行った自民党
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ならない事になる。静岡県知事選の位置づけについて「衆院選の前哨戦ではない」
と細田は言うが、それは細田が勝手に決められることではない。だから今度の
都議選も麻生などを応援に行かせてはいけない。応援などに行かせるから
衆院選の前哨戦のような感じにしてしまい誤解を与えてしまうのである。