MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

もはや敵なし

2008-03-22 00:17:35 | Weblog

真央、転んでも「金」…愛犬2匹が勝利を生む(夕刊フジ) - goo ニュース

 初っ端からあれだけ派手に転んでしまったら普通金メダルは取れないはずで

あるが、それでも動揺せずに残りの演技を完璧にこなした浅田真央は心身ともの

凄まじい強さを証明したということになるだろう。去年に比べて体も一回り大きく

なったように感じ、大人の雰囲気を醸し出すようになってきている。「真央ちゃんが

大人になったら誰も勝てない」と安藤美姫が言っていた通りになりつつあるのだが、

勿論オーラだったらまだ負けてはいない安藤にも引き続き頑張ってもらいたい。


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『特集:ペドロ・コスタ監督特集2008』 100点

2008-03-21 19:32:30 | goo映画レビュー

特集:ペドロ・コスタ監督特集2008

-年/-

ネタバレ

‘失敗’作について

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 ‘失敗作’というものがどういうものであるのか改めて説明する必要などないであろう。‘失敗作’と聞いてすぐに思い浮かぶ作品が失敗作であるのだろうし、万が一何も思いつかないという人に対しては、それほどの強運の持ち主であるのならば今後も失敗作に巡り会うことはないだろうから、‘失敗作’について説明は要しない。
 だからここで説明してみたいは‘失敗作’ではなくて‘失敗’作のことである。例えば、ペドロ・コスタの長編デビュー作である『血』のどこが‘失敗’作なのであろうか?
 そもそも作品の冒頭から父親に殴られた主人公ヴィセンテが父親の後を付いて行くことに失敗している。木陰に隠れる弟ニーノを探さなければならなくなるし、待ち合わせをしていたにも拘らず恋人クララとニーノは先に帰ってしまい、ヴィセンテは置いてけぼりにされてしまう。ヴィセンテの父親と金銭的な取引をしていた男たちや伯父が訪ねてくるが、その父親は既にこの世にいない。ヴィセンテとクララは父親の遺体を運ぶ時に、最初クララがその場から立ち去ってしまうが、いつの間にかヴィセンテが車で行ってしまうという同じ構図が、2人のデートに於いても、先に男友達の方へと走っていってしまったクララを追いかけていっていたはずのヴィセンテをいつの間にかクララが追いかけていくようなねじれとして見られる。伯父によって連れ出されたニーノを取り戻そうとするヴィセンテはニーノに会える直前で男たちに拉致されてしまう。そのグループ内の一人の女性によって、父親に会わせることを条件にヴィセンテは抜け出すことが出来るが死んだ父親に会えるはずはない。ヴィセンテの腕の中で目覚めるクララは勿論ボートに乗っているニーノに付いて行けていない。
 ‘父親の死’が象徴しているようにこの作品は‘後を付いて行くことの失敗’の物語で構成されているのである(ちなみに「この世で一番重要なものは何?」という問いで終わるラスト、ボートに乗っているニーノは中平康監督『狂った果実』の長門裕之と重複する)。
 ‘失敗’は2作目でも続く。『溶岩の家』では看護婦であるにも拘らず主人公マリアーナは工事現場で落下して意識不明になったレオンを始め‘助けることに失敗’している。マリアーナは暴行されそうになった時に助けてもらった犬を助けられず、意識を取り戻したレオンとの関係も上手くいかず、マリアーナの一番の理解者だった男性が何者かに襲われたことにも気が付かず、ラストシーンで少女を助けようとした時も突き飛ばされる有様である。
 ‘失敗’は3作目でも続く。『骨』では家政婦であるにも拘らず主人公クロティルデは‘持て成すことに失敗’している。そもそも最初からティナの乳児自体望まれて産まれてきていない。乳児の父親は通りで物乞いをするが上手くいかずに、乳児に‘腐った牛乳’を飲ませてしまう。この作品では台所と食事のシーンが多いがナベをひっくり返したり、中座したり、ガスを出しっぱなしにするなどことごとく‘持て成すことに失敗’しているのだ。
 ‘失敗作’がつまらないということは誰にでも分かることだが、‘失敗’作が面白いのかといえばそれを肯んずることは難しい。よっぽど頭の良い人でなければ楽しめないとは思うが、ペドロ・コスタが特異な映像作家であることに間違いはない。


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災い転じて福となす?

2008-03-21 08:48:36 | Weblog

「求む!日銀総裁」英紙が黒田氏ら候補あげ社説掲載(読売新聞) - goo ニュース

 与党はどうしても財務省出身の人でなければならなかったということが、図らずも

政管癒着の事実を炙り出してしまった感じである。ところで日銀総裁って本当に

必要なのだろうか? 例えば、「この人だったからこそ日本の経済危機がかろうじて

回避されてよかった」などという話は聞いたことが無い。日銀総裁の名前を聞くのは

公定歩合を上げるか下げるかの時くらいで、その時でさえトップダウンではなくて

みんなで相談した上での判断なのだから、もし総裁不在のまましばらく様子を見て

問題がなければ人件費の節約になるのではないのだろうか?


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笑いとは“革新”なのでは?

2008-03-20 07:25:11 | Weblog

キム兄苦言!土岐田の“放送中ナンパ”(スポーツニッポン) - goo ニュース

 私は木村祐一という人に関して詳しくはないのだが、意外と発言は保守的だと

思う。アメリカなどでは生放送中にプロポーズしたりしているので、当時土岐田麗子

が番組内で告白したのを見た時は、日本もずいぶんと変わったと思ったものである。

仮に2人が上手くいってそのまま結婚することになったら、それでも木村は同様な

苦言を呈するのであろうか? 特に土岐田の場合は言いっぱなしではなく実際に

付き合ったわけであり、堤下はそれで私生活のみならず仕事上でもいろいろな

メリットを得たのだから、この件に関しては木村の苦言は的を射ていない。


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イエスタデー

2008-03-19 17:56:18 | Weblog

まったく不誠実だった=マッカートニー離婚調停で判事が妻を酷評(時事通信) - goo ニュース

 それにしてもポール・マッカートニーは酷い女を妻にしてしまったものである。

最初からお金目的の結婚であったことは明らかである。あれだけ感性の鋭い人が

見抜けなかったのだろうか? 同情と愛を錯覚してしまったのだろうか? 私の

今の関心はポールが名曲「イエスタデー」を今後どのような想いを込めて歌うのか

ということである。こんな目に遭っても“Oh I believe in yesterday”と歌えるのならば

たいしたものである。


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零細化企業

2008-03-18 14:39:28 | Weblog

ゲーセンに逆風 大手、店舗閉鎖相次ぐ(朝日新聞) - goo ニュース

 ゲームセンターの店舗の閉鎖が相次ぐ原因は、任天堂の「Wii」のヒットと同時に

テレビ画面の大型化もあるだろう。ゲームセンターに設置してあるゲーム機の質が

家庭内にあるものとそれほど変わらないどころか、家庭内にあるものの方がむしろ

良かったりする。因ってゲームセンターが生き残れる可能性は更なる大型化、

つまり“パーク化”するしかないのだろう。しかしそうなるとゲームセンターは地方で

ことごとく失敗しているテーマパークのような道を辿るしかないであろう。それに

ゲームセンターは何もしなくてもかなり多くの電力を消費してしまうので、リスクも

高く、もはやおいしい商売ではないと思う。


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スーパーフラット

2008-03-17 18:59:44 | Weblog

新銀行東京、知事提唱の芸術事業から絵画購入…05年秋(読売新聞) - goo ニュース

 また頓珍漢な石原ネタである。「殺風景だから、ワンダーサイトで発表している

作家の作品を飾ったらどうか」という石原の提案で若手画家の作品3点を購入した

そうだ。「若手芸術家のチャンスを広げる意味で購入をアドバイスした」らしいが、

何故購入する必要があるのだろうか? チャンスを広げるのであるのならば購入

するのではなく、無償で展示場所を提供するという形式をとるべきなのだ。無償で

期間を決めて展示すれば多くの若手芸術家にチャンスを与えることも出来たはず

である。「作品の値段が上がれば銀行にもプラスになる」と言うが、二束三文に

なることもあるだろうし、その方が可能性として高いはずだ。石原の物の考えの

浅さにはいつも驚かされる。


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教育と才能

2008-03-16 00:06:13 | Weblog

浦沢直樹さん、名古屋造形大「マンガクラス」客員教授に(読売新聞) - goo ニュース

 このような話を聞く度にいつも疑問に思うことがある。北野武も東京芸大の先生

になったが、そのように大学の先生になるあなた達は大学で習ったから一流に

なったのですか、と。才能のある人間は人に習わなくても自分で勝手に学び、一流

になっていくはずである。才能の旬が過ぎて大学の教授になってしまう人は若手を

育てるという意図以上に大学教授という肩書きが欲しいのではないのだろうか?

確かポール・マッカートニーが音楽学校を作ったはずだが、そこの卒業生で売れた

ミュージシャンが現れても良い頃である。しかしそのような話はいまだに聞かない。

結局私が言いたいことは、若手を育てる暇があるのならば自分自身もう一度勉強

し直して、例えばビートルズを超える努力をしてみては? ということである。


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劣悪な環境の功罪

2008-03-15 00:10:42 | Weblog

野口みずき合宿地へ、発疹は黄砂が原因か(日刊スポーツ) - goo ニュース

 ひょっとすると北京オリンピックはいままでのオリンピックとは性格が違うものに

なるのかもしれない。いままでのオリンピックというものは試合開催までにひたすら

練習を積み、本番に実力を発揮するというものであった。つまり優秀な成績を出す

者が勝者になるのだが(当たり前だが)、北京オリンピックは試合開催までいかに

してベストな体調を管理して維持し続けられるかの勝負になりそうな予感がする。

つまり成績が悪くても体調さえ良かったら金メダルが取れる可能性があるという

ことになる。明らかに中国人に有利なオリンピックになるだろう。


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『特集:フレデリック・ワイズマン映画祭2008』 100点

2008-03-14 22:51:14 | goo映画レビュー

特集:フレデリック・ワイズマン映画祭2008

-年/-

ネタバレ

ドキュメンタリー映画再考

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 先日『アース』(アラステア・フォザーギル監督)というドキュメンタリー映画が上映されていたが、あたかも環境問題に託けて啓蒙化されたようなものはドキュメンタリー映画ではないと言いたいかのようなタイミングでこのフレデリック・ワイズマン映画祭が始まった。
 勿論ワイズマンの映画が‘ドキュメンタリー映画の正しさ’を示すわけではない。私たちが観るのは‘ただのドキュメンタリー映画’である。
 しかし不思議な話ではないだろうか? そもそもドキュメンタリー映画を制作する動機というものは、真実を暴きたいという欲望から生じるはずではなかったのか? だから『アース』に限らずマイケル・ムーアが監督するような作品こそが‘正しいドキュメンタリー映画’ではなかったのか?
 しかしワイズマンはそのような欲望を決して見せることをしない。あたかもこだわりなどなく「高校」「病院」「動物園」と適当に場所を選んで、映ったものをそのまま観せているかのようだ。
 例えば『メイン州ベルファスト』は、誤解を恐れずに単純化して言えばベルファスト内の学校や病院や工場など次々と場所を変えてその中にいる人々の様子が映し出されるだけである。確かに私たちはこの作品でベルファストという町を理解出来るのであるが、それ以上に印象的なのは単に連なっている映像から浮かび上がってくる‘生と死’(あるいは‘生産と消費’)の物語と、そのような大人の物語に戸惑い、イミテーションの食べ物を口にしてしまう男の子と、動物の剥製が死んでいることを理解できない女の子である。ラストシーンが教会だったのが象徴的だ。
 しかしこのような意見に対して、そんなことはない、ワイズマンは社会問題を暴き立てるためにドキュメンタリー映画を制作しているのだという反論もあるだろう。
 そのような面があることを否定するつもりはない。例えば『パブリック・ハウジング』という作品はシカゴ郊外の貧しい黒人が多数を占める公共住宅が抱える問題を描いてはいる。住宅管理者のロン・カーターの「会社を作って仕事を生み出す努力をしよう」という趣旨の同じ演説を、管理組合の会議でのものと地元の大学で行なわれたもの2回とも映し出すのであるから、問題提起をしていることは明らかであるにしても、演出の面から捉えると、あたかも絶えず画面を横切っていく車や人や動物に対して、ロン・カーターが必死になって引きとめているように映るのである。
 それでもこのような反論があるかもしれない。最新作『州議会』はアイダホ州議会内での様々な委員会や会議を次々と映し出していき、対立する意見をあたかも平等に編集しているように見えるが、実はワイズマンは‘饒舌な男性’である議員たちと‘寡黙な女性’である事務員のコントラストを観せることで、政治は男性によって支配されていることを暴いているのだと。
 そのような面があることを否定するつもりもないが、仮にも名をフレデリック、姓をワイズマンとして40年以上ドキュメンタリー映画を撮り続けている監督が自身の作品をそのような二項対立レベルに甘んじさせるわけがない。あるいはこの作品の最後で議論される動議の内容が理解出来なかったのか?
 賛成4人、反対4人の僅差で否決されてしまったその動議の内容は、簡単に言えば同性同士の結婚を認めるということである。このシーンを最後に持ってくることで私たちはいままで観ていた男性が本当に‘男性’だったのか、女性が本当に‘女性’だったのか分からなくなるのである。どちらの性を装った(あるいは装っていない)どちらの性がどういう意図で賛成、あるいは反対したのか分からない。私たちの目の前に確かに問題は‘ある’はずなのだが、その問題が‘見えない’という異常事態にこの映画を観ていたはずの私たちは陥るのである。
 撮影して編集しているのであるから、ワイズマンにも‘欲望’はあるのだろう。恐らくそれは完成するまで自分自身にもどういう作品になるのか分からないからこそ制作したいという欲望、つまり好奇心であり、それは観客である私たちと共有するものである。この好奇心こそが彼の映画を品の良いものにしているのだと思う。


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