仕込んで丁度12日目、梅雨も明けたし仕込みも明けたろうと夕食後に取り出した。粕や味噌をそぎ落として早速一口噛みしめる。「ンンー旨い!」吾輩の腕前は三ツ星級、頭頂部は夕暮れにもめげず燦然と輝いているのだった。そう、「宵闇迫れど輝き果て無し・・・」とフランク永井も歌っている。何と「美しい爺代、ああー爺代!」これは三田明だ。
まずは麦みそで覆い、更にラップで包んだ味噌漬けから味見をする。ラップに包んで収めた容器には水分が染み出ていたから、当然いくらかは締まり固さが増したものの咀嚼感が良くなった。
使った味噌はお手製で熟成期間もそこそこの手前味噌だけれど、味噌の風味より塩分が美味しさを増加させた感じだ。郷里で食べた晒しエゴの味噌漬けは、これも自家製の手前味噌四斗樽の中に手拭いで包んで漬け込んだ味噌漬けなのだが、春を迎える神事、毘沙門天裸祭りの際、お休み処としていた三条の毘沙門講中に振舞われた手打ちそばの繋ぎに使った残りを用いている。
だから食べたい時に食べられた訳ではなく、年一回のご馳走に類する味噌漬けだったはずである。昔から下々はSGDsに努めていたのである。江戸の町などその最たる町で、近代社会でも斯様な究極のシステムは存在していない。
話は変わって確か小千谷市あたりがの名物と思うが「ヘギ蕎麦」はエゴノリ繋ぎではなかっただろうか。記憶は曖昧になっているものの、それはともかく久しぶりに懐かしい一品を口に入れた幸福感があった。ああ、この味、この味、この味だぁ!。
二品目は酒粕漬けの菊花とエゴ菊花寄せである。口に入れての第一印象は「塩味が足りない」だった。菊花も晒しエゴ菊花寄せも粕漬けの美味しさはあるのだが水分があったためか薄めの味わいになって物足りない。出し汁を垂らして食べたら美味しさが跳ね上がったから、やはり塩分がカギなのだろう。どちらにしても床から出した以上は日持ちがしないだろうから二、三日で食べきらねばならない。今日の一口二口三口で一晩経過すれば安全かどうかは確定するものの、もとより他人様に提供するものではなくあくまで自分好みの食材調理飲食なのだ。
どちらの漬け方に優劣があると言うより「懐かしい食材を懐かしい調理で食した」口中幸福、ご満悦の方が勝る。年金暮らしの懐具合の僻みで言う訳ではないけれど、銭金出しても食べれない一品を自分で供する事が出来るのは贅沢の端くれに座らせてもらえるであろうし、これぞ人生の珠宝と言わず何と言う。
満漢全席のように数日掛けながら腹いっぱいの美食を楽しむ食べ方よりも、時折の一品の方が幸せホルモンが出るような気がするし、このような時にホリエモンは出てきてほしくないがドラエモンは苦しゅうない、まあ良きにはからえ、なのだが楊貴妃ははべっておらん孤食であった・・・。
でもでもでも「この寂しさがやがていつか、私を大人にするという事を・・・」と森山良子は歌っていた。姥捨て山で風雨や高貴の、いいえ好奇の視線に晒されても私は負けない!てなもんや三度笠。

使った味噌はお手製で熟成期間もそこそこの手前味噌だけれど、味噌の風味より塩分が美味しさを増加させた感じだ。郷里で食べた晒しエゴの味噌漬けは、これも自家製の手前味噌四斗樽の中に手拭いで包んで漬け込んだ味噌漬けなのだが、春を迎える神事、毘沙門天裸祭りの際、お休み処としていた三条の毘沙門講中に振舞われた手打ちそばの繋ぎに使った残りを用いている。
だから食べたい時に食べられた訳ではなく、年一回のご馳走に類する味噌漬けだったはずである。昔から下々はSGDsに努めていたのである。江戸の町などその最たる町で、近代社会でも斯様な究極のシステムは存在していない。
話は変わって確か小千谷市あたりがの名物と思うが「ヘギ蕎麦」はエゴノリ繋ぎではなかっただろうか。記憶は曖昧になっているものの、それはともかく久しぶりに懐かしい一品を口に入れた幸福感があった。ああ、この味、この味、この味だぁ!。

どちらの漬け方に優劣があると言うより「懐かしい食材を懐かしい調理で食した」口中幸福、ご満悦の方が勝る。年金暮らしの懐具合の僻みで言う訳ではないけれど、銭金出しても食べれない一品を自分で供する事が出来るのは贅沢の端くれに座らせてもらえるであろうし、これぞ人生の珠宝と言わず何と言う。
満漢全席のように数日掛けながら腹いっぱいの美食を楽しむ食べ方よりも、時折の一品の方が幸せホルモンが出るような気がするし、このような時にホリエモンは出てきてほしくないがドラエモンは苦しゅうない、まあ良きにはからえ、なのだが楊貴妃ははべっておらん孤食であった・・・。
でもでもでも「この寂しさがやがていつか、私を大人にするという事を・・・」と森山良子は歌っていた。姥捨て山で風雨や高貴の、いいえ好奇の視線に晒されても私は負けない!てなもんや三度笠。