上の池に立ち入って葦抜去中、至近をコシアキトンボ二匹が追従飛翔していく。ともにオスでメスは見つけれなかった。飛翔がゆっくりなので撮影できるチャンスと思ったものの両手はゴム引き手袋で泥だらけ、デジカメは尻もちついて水没するのを恐れ陸のバックの中、ケータイはバカ長靴の胸ポケットにあるが電源OFFのままで間に合わない。「あーあ、マーフィの法則通り…」とあきらめた。
それでも作業終了後に全景を撮影している時に飛翔を確認、何処かに止まるのを動かずに辛抱していたら運が巡ってきたのだ。故事にある「待てば快時の機会あり」そのままになったのである。喜び勇んで撮影する事何カットか、そこで気が付いた。「最初の撮影もこの枝だった!」、初記録写真は池に張り出したコナラの枝先に止まったのを写したのだ。おりしも同じ枝先であるから習性的に好みの場所と言うのは早計過ぎるか・・・。日当たり良好の場所より木漏れ日のある影と日向の境界当たりでの飛翔が多かった。
喜び勇んで帰宅。PCに画像を取り込むために接続したらファイル二つある。どういう訳か勝手にファイルが作られる事があって、どういう訳か勝手に振り分けられる時も有るのだ。二つ目のファイルは使わない画像になってしまったので、うっとおしいから削除して本来のファイルを開いたら本日撮影したはずの十カットほどが全くない。削除したファイルに入っていたのだった。「元に戻す」をクリックしても無駄、「ゴミ箱」を漁っても無駄、かくして本日の首尾「撮ろう、撮った」は儚く徒労となったのだった。
作業終了時の様子は翌日でも構わないのだが「フーテンの虎さん」状態のコシアキトンボでは翌日も居るかどうかの保証はないし、この日観察したところではメスは見なかったから、おっつけ風来坊で去るのだろう。返す返すも大ポカしてしまった。
それから執念の「日に三顧の礼」を採って三日目、ようやく姿を確認できたが一匹だけだった。それもシオカラトンボの猛アタックばかりで止まる事すらままならない。ようやく止まった僅かな機会で撮影できたのが上掲の1枚。待ち受けのためカメラの電源を入れっ放しで充電不足になりカメラはダウンした。ああー「待てば回路の日和見なり」。
逆光なのでコシアキトンボに見えづらいが待ちに待ったコシアキトンボの1枚なのだ。写真を子細に観察すると翅の傷みが見える。この池で待っていてもメスのご到着は恐らく望めないだろうから、いささか哀れでもある夏の日。
それでも作業終了後に全景を撮影している時に飛翔を確認、何処かに止まるのを動かずに辛抱していたら運が巡ってきたのだ。故事にある「待てば快時の機会あり」そのままになったのである。喜び勇んで撮影する事何カットか、そこで気が付いた。「最初の撮影もこの枝だった!」、初記録写真は池に張り出したコナラの枝先に止まったのを写したのだ。おりしも同じ枝先であるから習性的に好みの場所と言うのは早計過ぎるか・・・。日当たり良好の場所より木漏れ日のある影と日向の境界当たりでの飛翔が多かった。
喜び勇んで帰宅。PCに画像を取り込むために接続したらファイル二つある。どういう訳か勝手にファイルが作られる事があって、どういう訳か勝手に振り分けられる時も有るのだ。二つ目のファイルは使わない画像になってしまったので、うっとおしいから削除して本来のファイルを開いたら本日撮影したはずの十カットほどが全くない。削除したファイルに入っていたのだった。「元に戻す」をクリックしても無駄、「ゴミ箱」を漁っても無駄、かくして本日の首尾「撮ろう、撮った」は儚く徒労となったのだった。
作業終了時の様子は翌日でも構わないのだが「フーテンの虎さん」状態のコシアキトンボでは翌日も居るかどうかの保証はないし、この日観察したところではメスは見なかったから、おっつけ風来坊で去るのだろう。返す返すも大ポカしてしまった。

逆光なのでコシアキトンボに見えづらいが待ちに待ったコシアキトンボの1枚なのだ。写真を子細に観察すると翅の傷みが見える。この池で待っていてもメスのご到着は恐らく望めないだろうから、いささか哀れでもある夏の日。