澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「週刊ポスト」が明らかにした中国の地図~尖閣諸島が日本領である証拠

2010年10月04日 22時18分01秒 | 中国

 きょう(10月4日)発売の「週刊ポスト」10月15日号には、1970年以前に中国が発行した尖閣諸島の地図を掲載しているという。
 その地図は、尖閣諸島を日本領として明示しているので、中国側にとっては「不都合な真実」。在日中国人が神田神保町の古本屋を回って買い漁り、焚書処分にしたという曰く付きの地図だ。

 (
(「週刊ポスト」10月15日号)

 文革期の中国地図は、非常に政治的だった。縮尺が大きな地図でも、東京の隣に三里塚と書かれていた。ちなみに三里塚とは、成田空港近くの地名で、空港反対運動の拠点があったところだ。 私自身もこの時期の地図を持っているはずだが、どこにあるのか分からない。

 「台湾の声」に水間正憲氏が詳しく記している。以下に引用させていただく。

【10月4日発売『週刊ポスト』】尖閣領有にトドメを刺す中国発行の尖閣の地図
                                     (「台湾の声」より転載)
水間政憲

■予告していました中国の情報戦に打ち勝つ仕組みを明らかにします

今回、中国で発行した地図の在りかを告知する決断をしたのは、反日民主党政権が、中国漁船の追突ビデオを公開しない状況では、焚書される危険性があったからです。
そして、ギリギリまで明らかにしなかったのは、在住中国人と観光中国人80万人以上との総力戦になることを承知していたからです。
中国人は、日本国内にあった中国で発行した1970年以前の地図を、数億円以上と思われる資金を投入し、40年間をかけて買い漁り、焚書を完了しております。それらの行動も裏を返せば、中国がそれらの地図帳を決定的証拠として認識していたことの、なによりの証明になります。
そこで、数億円以上を使って焚書していた労力を徒労にしてあげる国際的情報戦を、小生が仕掛けてあげたのです。
この戦略は、発行部数5万冊前後のオピニオン誌に掲載しても世論になり得ないので、発行部数50万部の『週刊ポスト』誌のモノクログラビアに掲載して頂けることになったのです。

前原外務大臣が「中国で発行した1960年発行の地図帳に尖閣と日本名で表記されている」と、発言している地図は、小生が2004年に中国の地図探索過程で偶然に発掘したもので、日本国内に一冊が奇跡的に残っていたものなのです。
その地図を、中国側の焚書活動を諦めさせるために、日本国民が永久保存版として『週刊ポスト』のモノクログラビアを切り取り、額縁に入れて飾って頂ければと思っております。
そこで緊急のお願いですが、中国人の買い占めを阻止するたも、一人でも多くの友人・知人に情報を拡散し、日本人が先回りして買い占めていただきたく思っております。
また、2004年11月10日号『SAPIO』誌に寄稿した同地図が掲載されているリポート「中国の恥地図改竄史にみる『尖閣領有の大嘘』」も、インターネットで読めるように「ニュースポスト」に掲載されます。
同リポートは、中国の地図改竄史を明らかにしてありますので、国際的に拡散されると、泥棒国家中共の体質が全世界に一目瞭然に晒しものになります。
覚醒されていらっしゃるインターネットユーザーの皆様の総力で、10月4日(月曜日)発売の『週刊ポスト』を買い占め、週刊誌ではほとんどあり得ない、増刷するまでなれば、日本国内での情報戦には勝利しますので、何卒宜しくお願い申し上げます。

以下、2004年の同リポートを発表できた経緯を解説します。

● 歴史を改竄して、日本固有の領土を強奪する決断をした中国は、なりふり構わずロシアと連携して強行手段に出てきました。

小生は、2004年3月に中国人が尖閣諸島に上陸したことに危機感をいだき、中国の恥を世界中に知らしめる為に、中国が自ら発行した地図帳で尖閣を日本固有の領土と証明するために、半年かけて徹底的に中国版地図帳を探し回ったのでした。
その探索結果は、2004年11月10日号『SAPIO』誌に発表した「中国の恥地図改竄史にみる『尖閣領有の大嘘』」です。
そのリポートの目玉は、1960年に北京で発行した地図帳でした。
当時、1970年以前に中国で発行した地図は、自衛隊にも国立国会図書館や全国の大学・自治体の図書館などだけでなく、神田古書店街を虱潰しに探しても一冊もないのが実態でした。
その地図探索過程で驚いたのは、神田古書店街に中国人が徘徊し、かなり前から中国発行の地図を買い漁っていたとのことでした。

中国は、歴史を改竄する長期戦略を日本国内にいる中国人を使って実行していたのです。
また不思議なことは、国立国会図書館が1970年以前の中国で発行した地図帳を、収集の対象にしていないとのことだった。それが、どのような経緯で収集の対象から外したのか、今後、徹底的に国会で問題にする必要があります。
1960年に中国で発行した地図の発見は、探索過程でたまたま掛けた一本の電話で明らかになったのです。
それは、決定的な資料となる1970年以前に中国で発行された地図が、日本国内にいる中国人によって焚書されていた状況で、小生の怒りは当然のように外務省に向かいました。
それは、1972年の日中共同声明以降、「日中友好」一色の報道の中で、中国は着々と尖閣を強奪する準備をしていたからです。


そこで、それら一連のことを外務省中国課に抗議の電話をしました。
その時、小生は「これだけ尖閣領有問題が起きているのに外務省は、なにをして来たのか。中国の日本大使館の職員は天皇誕生日のパーティーや宴会にうつつを抜かしているだけじゃないのか。中国で発行した1970年以前の地図帳を収集することとか、やれることがいろいろあるだろう。中国課に中国の地図帳は無いのですか。」との申し入れに対して、中国課の担当者は、「確か古いのが一冊あったと思います」とのこと。
小生「それじゃ電話口にもってきてください。」
担当者「もってきました1960年の地図帳です。」
小生「沖縄尖閣が出ているところを見てください。」
担当者は「あれぇ~!」と、すっとんきょな大きな声を電話口で発したのです。
小生「どーしました!」
担当者「尖閣諸島が日本名で表記してあります。」と、驚いていました。
そこで小生は、「外務省の批判をリポートで差し控えるから、その部分の地図と表紙・奥付のコピーをいただけますか。」と申し入れ、それで資料を発表できたのでした。
これは、国民が参加できる情報戦です。40年間の中国の長期戦略を一気呵成に叩き潰すことのできる千載一遇のチャンスです。
皆様の徹底的な周知活動が情報戦の帰趨を決しますので、重ね重ね宜しくお願い申し上げます。


「中国は日本を併合する」(平松茂雄著)を読む

2010年09月18日 19時28分56秒 | 中国

 遅ればせながら、平松茂雄著「中国は日本を併合する」(講談社インターナショナル 2006年)を読む。

  先日、尖閣諸島で中国の「民間」漁船が、海上保安庁の監視船に故意に衝突させる事件が起きた。NHK、TBS系、テレビ朝日系の報道では、日本国内で反中意識が高まらないように配慮した報道姿勢が目立った。仙石官房長官は、衝突事件や中国政府が日本大使を深夜に呼びつけて抗議した一件について、「遺憾である」としか言わず、かえって、台湾漁船の抗議行動に対しては、「台湾政府というか台湾に厳重抗議する」と憤ってみせた。旧・日本社会党出身で人権派弁護士、護憲運動家という仙石だが、要職についてもなお、親中国的政治姿勢は一向に改まらない。これほどまでに中国に媚び、民主主義国家である台湾を軽視する官房長官は、いまだかっていなかったはずだ。日本政府の中枢に、祖国よりも中国にシンパシーを寄せる政治家がいるとは、驚くべき事態だ。
 菅政権の中でまともな対中認識を持っているのは、前原外務大臣だろうか。「東シナ海には領土問題は一切存在しない」と言った彼の態度は高く評価できる。事実、国際法に照らして尖閣諸島は、疑いなく日本領土なので、「領土問題」「尖閣諸島問題」というものは存在しないのである。

 さて、本書は次のような構成だ。
序章 動き始めた「日本併合」に向けた中国のシナリオ
第1章 知らないうちに格段に進んだ中国の軍事力
第2章 東シナ海資源開発に隠された中国の真意
第3章 中国の「他国侵略」の歴史
第4章 日本は海からの侵略に耐えられるか
第5章 2010年、日本の運命の行方

 第5章で著者は、2010年、すなわち今年が、日本の運命の分岐路となると予言した。中国の宇宙開発が進み、宇宙からの日本攻撃も可能になるのが今年だというのが、その予言の根拠だ。だが、中国海軍の軍事力も飛躍的に向上し、日本のシーレーンを脅かしている。
 著者は、中国が意図するのは「中華世界の再興」だとする。1995年、李鵬首相(当時)がオーストラア首相に「日本などという国はこのままで行けば、二十年後には消えてなくなる」と語った。

「中国要人の発した”消えてなくなる”という言葉は、中国の軍事力を背景とした大国化と、それを容認、あるいは援助する日本という構図に鑑みれば、文化や精神の消滅を遙かに超えた、日本の存在そのものにかかわる予告と見なすことのほうが、現実性をもつのではないだろうか。中国は日本に対する評価を終えているのである。」(p.202)

 中国の軍事力をここまで強大化させたのは、日本の「平和外交」だと著者は言う。
「日本政府は中国に対して、1979年から2004年までに、3兆3000億円、民間援助も合わせると、総計6兆円を超える援助を供与してきた。…つまり、ODAによって日本は、中国の経済成長を支え、対日貿易による巨額の黒字を積み上げさせ、今や実質世界第一位の外貨準備高を樹立させるのに貢献したばかりか、核と海洋と宇宙とを推し進めて、強大な軍事国家へと成長する中国の国家戦略を後押ししてきたのである。」
「総額6兆円を超える対中国経済援助の出所は、いうまでもないが日本国民の税金や資産である。一億2000万人の日本国民が、この25年内外に一人あたり約5万円の援助をしてきたことになる。」(p。192-193)

 中国政府は、優越感と劣等感がミックスされた日本人の対中意識を巧みに操作して、日本から援助を引き出してきた。「中国をみくびったツケ」をわれわれはいま、払わされようとしているのだ。

 著者・平松茂雄氏は、慶應義塾大学塾長であった故・石川忠雄氏(中国政治論)の一番弟子。長らく防衛研究所で研究を続け、中国の軍事問題の第一人者である。本書のタイトルを見ると、数多のトンデモ本のような印象を受けかねないが、その内容は、実証に基づいた真面目で確かなものである。

 

中国は日本を併合する
平松 茂雄
講談社インターナショナル

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琉球復國運動基本綱領~中国共産党の沖縄属領化工作文書

2010年09月10日 17時33分50秒 | 中国

 先日、NHKから「歴史は眠らない 沖縄・日本 400年 琉球王国から沖縄県へ」というTV番組が放送された。この番組は、小森陽一・東大教授(国文学)がホストで、あたかも琉球王国の復興を願うかのような内容だった。
 「護憲派」の運動者でもある小森教授の言説を真に受ける人もいるのだろうが、私は大きな疑問を抱き、次のように書いた。

第2回を見る限りでは、琉球国からの視座で、清国との朝貢関係、日本による琉球処分を採り上げた。歴史的事実については、史実の捏造は見られないものの、ナレーションの印象と使われた映像や音楽を重ね合わせて考えると、近代日本という国家に対するある種の「嫌悪感」がはっきりと伝わってくる。「軍備を持たない」「平和な」琉球国が、清国との「国際交流」もうまくいっていたのに、ある日突然、近代的軍事力を整えた明治日本に制圧されたと言いたいかのようだ。そして、このような歴史認識を、現在の「基地を抱える沖縄」「内地から差別される沖縄」に結びつけ、現代日本の政治状況を批判することに力点を置いているようにも見える。
 だが、東アジアの伝統的秩序である華夷秩序について詳しく説明することもなく
、「西洋の衝撃」(Western Impact)について語ることもない。要するに、琉球が近代日本に併合された時点での国際環境の説明が不十分なのである。西欧列強が非西欧世界を次々と植民地化し、その終着の目標が日本だったという、当時の緊迫した国際関係に関する基本認識が欠けている。
 そこを詳しく説明すると、どうしても明治政府が採った「琉球処分」がやむを得ない決断であったことが浮き彫りになってしまうからだろう。あくまでも、小森氏は、現在の「人権」感覚で明治政府を断罪したいようなのだ。 」

 前置きが長くなったが、この小森・東大教授の主張は、中国側の「琉球は中国の一部である」という主張とすっかり共鳴しているのだ。また、尖閣諸島における中国漁船の事件を見ると、「朝日新聞」は「尖閣諸島は日本に加えて、中国、台湾も領有権を主張している」※と伝えている。「朝日」の記事に従えば、尖閣諸島は領土紛争の渦中にある島だと読みとれる。本当にそうなのだろうか?

 ※    http://www.asahi.com/national/update/0907/TKY201009070208.html
 
 ここではっきりしたいのは、尖閣諸島も沖縄もれっきとして日本領土だと言うことだ。歴史を知らない「市民派」や小賢しい「知識人」の方々は認めようともしないのだろうが、このことは国際法上確固たる事実である。上述の小森教授のTV番組を見ると、近代日本が悪の根源のように感じさせる演出を施している。「朝日新聞」も小森教授も同様に、現在の「市民感覚」で「平和」「人権」「共生」とかいうキーワードを用いて過去の歴史を裁いているが、それは無い物ねだりというものだろう。自分だけが「歴史」を裁く超越的存在のような顔をしているが、小森教授は、単なるアマチュア歴史家(本業は国文学)、「朝日」は戦前、戦争遂行をあおりに煽った前科がある。決して、正義の使者などではない。

 きょう、伝えられてきたのは、中国共産党による沖縄の属国化計画。「知識人」を気取る人ほど、「こんなのは右翼の戯言」と思うのだろうが、実はそうではない。現在の中華人民共和国も台湾にある中華民国も、満州族の征服王朝であった清朝が成し遂げた最大版図(チベット、ウィグル、内モンゴル、台湾を含む)を自国の領土だと主張している。加えて、朝貢関係にあった琉球王国も含まれるというのだから、右翼の戯れ言などではない。この問題の根源は、中国人が西洋近代によって形成された現在の国際秩序を都合よく解釈しているところにある。自分たちの利益になると思えば、近代以前の「華夷秩序」を持ち出し、周辺国を恫喝するというやり口が、それだ。
大一統」の中国、大中華帝国の夢は、今なお中国人(漢民族のことだが)の頭から離れないのだ。

 中国側には沖縄併合の野望があり、日本においても「朝日新聞」や小森教授のように、中国の意向を代弁する勢力がいるということだ。文化大革命期、朝日新聞がやってきた中国礼賛の数々を忘れていない人も多いはずだ。
 
 

《台湾の声》より転載

【琉球復國運動基本綱領】中国共産党の沖縄属領化工作文書

9月8日、北京の日本大使館で、尖閣諸島海域で領海侵犯した中国漁船の船長の逮
捕に対する抗議デモがありました。

抗議に参加したのは「中国民間保釣連合会」のメンバー約30名です。

この団体は民間団体を装っていますが、実際には中国共産党の工作員だと考えて
間違ないと思います。

その証拠が下記の「琉球復國運動基本綱領」です。

この文書は、「中国民間保釣連合会」のホームページに掲載されていました。
http://www.cfdd.org.cn

このような文書を単なる民間団体が作成するわけがありません。

下記に訳文を記載いたしました。

驚愕の文書ですので、是非じっくりお読みいただきたいと思います。

翻訳は機械翻訳に日本語になるように手を加えましたが、大意はご理解いただけ
ると思います。

掲載日が2007年10月8日となっていますので、2007年にはこの文書が作成されて
いたものだと思います。

おそらく、民主党の沖縄ビジョンはこの基本綱領を実現するために作られたもの
だと思います。

中国共産党は国際的には合法的に沖縄を属国化する事をねらっていると思います。

つまり、沖縄県民自らが日本からの独立を求めて「琉球共和国」を建設し、独自
の文化国家をつくりあげ、

それを中国共産党の支配下に置き属国化しようという狙いです。

悲しいことに現実はその道へまっしぐらに進んでいるように見えます。

すぐに思いつく点を列挙するだけで、下記の6点があります。

1.普天間基地問題という名の沖縄県民自らの「米軍追い出し運動」
2.沖縄県作成の沖縄21世紀ビジョンに記載された「基地のない平和で豊かな島」
3.沖縄県作成の沖縄21世紀ビジョンに記載された「一国二制度」の積極導入。
4.沖縄経済の中国依存の増大、沖縄県知事自ら中国観光旅行者誘致のトップセ
ールス
5.中国海軍の東シナ海覇権の増大
6.尖閣諸島紛争

これらの流れの行き着く先が下記に記載された「琉球臨時憲法九条」であり、
「琉球共和国」の設立です。

この憲法によると琉球共和国は、「奄美州」「沖縄州」「八重山州」の3州から
なりそれぞれの州から代議士を選出し、
代議士で大統領を選出し、大統領は首相を任命するとなっています。

そして、琉球共和国の言語は琉球言、中国語、日本語の三種類あり、中国語を公
用語にするとなっています。

また、兵役は志願制度ですが、国家は十分な国防体制を整え、国民に国防教育、
歴史教育をしっかりする義務があると歌っています。

皮肉な事にこの国防については、琉球臨時憲法の第九条に謳われています。

沖縄の九条の会が基地のない平和な島を目指し運動している先にあるのは、人民
解放軍の指導のもとで訓練を行う

「琉球共和国軍」を持つ「琉球共和国」です。

中国語が公用語ですので、出世するのは中国語を話せる中国人のみという社会が
実現します。

このような悲惨な未来を回避するために、未来を下記文書を沖縄県民全員に伝え
たいと思います。

この文書の拡散にご協力をお願いいたします。

(JSN代表・仲村)

<琉球復國運動基本綱領>
http://www.cfdd.org.cn/bbs/thread-69800-1-1.html (中国語)
(表示されるのに時間がかかります。)

2007年10月8日
一、琉球古来より主権のために独立する国家、琉球の人民は日本の琉球群島に対
する植民地統治を承認しません。
二、琉球国の主権の独立と領土保全を回復して、琉球共和国を創立します。
三、必要の時期その他の政治の組織あるいは団体と創立の“琉球国の臨時の政府”
を協議します。
四、琉球の回復の後で採用の政治制度は広範に各政党の共通認識と民衆の願望を
求めます。
五、いかなる個人、団体、党派、国家の琉球国の独立性に対する質疑に反対しま
す。
琉球は国に回復して運動して終始一貫して琉球が独立を回復するために奮闘しま
す!

<琉球臨時憲法九条(案)>
第一条:琉球共和国は博愛、自由、平等、民主的な基礎上のを創立して共和制の
国家を建設します。

第二条: 一般に琉球共和国の公民、 年齢、人種に関わらず、 すべて憲法を獲得
して憲法の規定の権利で琉球に共和国の公民権を与えます。

第三条: 琉球共和国の領土は琉球国家の歴史の上で持ったのと琉球群島の中のす
べての島を含んで、 私達の精神の落ち着き先で、
すべての琉球人の生命より更に重要です。

第四条: 琉琉球共和国は3つの主要な州から:奄美州、 沖縄州、八重山州は構成
して、各州の3つの列島の群を含める琉球群島のすべての島.
すべての琉球共和国の公民、人口、戸籍管理の方面の法律に合うのでさえすれ(あ
れ)ば、自由な選択は移っていかなる1つの州へ居住することができて、いかなる
制限を受けません。

第五条: 琉球共和国の政府は議会制を実行して、国家は各州から分配の定員によっ
て国民から代表を選出し議会を構成して、そして議会から国家の大統領を選出して、
大統領は政府の首相を任命し政府を構成します。

第六条: 琉球共和国はすべての州に自治の権利を与えます。
それぞれの州は各州の発展の地方の法律の権力に適応する制定があります。ただし、
連邦政府の国家憲法と国家の法律と互いに抵触することがなく、連邦政府はそれぞ
れのに州が適切に国家の法律の権利を変えることが無い事が条件です。それ以外は
無効です。

第七条:第七条: 琉球共和国の言語は琉球言葉、中国語、日本語の三大語群があって、
琉球共和国の政府と各州政府は中国の台湾省、福建省東南の方言の語族の琉球言葉
と中国語が間近なことを政府の言語にして、政府の提唱は中国語の共通語を推進し
ます。同時に中国語、日本語、英語は民間の通用する言語です。琉球共和国の文字
は漢字、日本語の2種類の文字があります。琉球共和国の政府と各州は琉球の歴史
の伝統の使う漢字によって政府の文字で、すべての国家機構と国有の企業、社会の
機関の文字の資料は規定の国家の政府の文字を使います。漢字、日本語、英文は琉
球共和国の民間の通用する文字です。琉球の全区域は繁体の漢字を使います。

第八条: 琉球共和国の臨時国旗は赤、黒、藍の3色の旗です。臨時国章は琉球諸島の
海洋の環を下に上に“万国津梁の鐘”の彫像を覆います。

第九条: 琉球共和国の国防が十分にそろってと歴史の教育は緩めて変えてはなりま
せん。過去、琉球は戦争のため敵に占領されてしまいました。政府は琉球の国防を
十分に完備し、強化に努めなければならない。琉球共和国の兵役は、公民から募集
される志願制度です。国防の義務を持ちます。国家の安全・防衛の義務を持ちます。

琉球共和国の政府は国防の教育の職責を導く宣言があります。国家の安全を十分に
完備する義務があります。政府は国家の和平性の記念日を行うことがあります。政
府は国民に対する歴史教育の職責を負います。



<原文>
http://www.cfdd.org.cn/bbs/thread-69800-1-1.html


ウーアルカイシ氏が逮捕

2010年06月05日 00時04分34秒 | 中国

 6月4日は、「第2次天安門事件」※の記念日。1989年6月4日の北京・天安門広場は、おびただしい血で染められた。

※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 この運動を率いていたウィグル族のウーアルカイシ青年は、その後米国に行き、さらに台湾に亡命したと伝えられた。ところが、21回目の記念日の今日、東京の中国大使館に入ろうとして、警備の警察官に取り押さえられ、逮捕された。
 TV映像を見る限り、逮捕されたウーアルカイシ氏には昔日の面影はない。21年の歳月を感じさせた。

 4月に中国の西北部にある西安、蘭州、敦煌を旅行したとき感じたのは、中国政府の「西部大開発」のすさまじさだった。荒涼とした砂漠の中に延々と続く最新型の風力発電風車、新彊ウィグルまで続く高速道路など、少し前の中国では、沿海部にしか見られない光景だった。
 21年の歳月は重い。ウーアルカイシ氏がその光景を見たら、どう思うだろうか。

 経済発展によって、農村や少数民族地区の住民にもある程度の恩恵がもたらされるに違いない。ウィグル族、チベット族などの少数民族は、それに甘んじてしまうのだろうか。それとも、漢民族の考える「大一統」という中華帝国の誕生に異議を唱えるのだろうか。 

 

大使館侵入容疑で逮捕、ウーアルカイシ氏か 06/04 19:22

 建造物侵入の疑いで現行犯逮捕されたのは、ウーアルカイシ氏とみられる自称、42歳の投資家の男です。

 警視庁によりますと男は4日午後2時半頃、東京・港区の中国大使館前で抗議活動を行っている際、警備にあたっていた、警察官の制止を振り切って柵を乗り越え、敷地内に侵入した疑いが持たれています。

 ウーアルカイシ氏は1989年の天安門事件で民主化運動を率いた、学生リーダーの1人で、運動が鎮圧される直前にフランスへ亡命し、中国当局から指名手配をされています。

 警視庁は、男がウーアルカイシ氏かどうか、身元の確認を急いでいます。(04日18:14)


いまどきの敦煌(4)

2010年05月08日 11時45分37秒 | 中国

敦煌旅行に同行した友人から撮影した写真データを入手。私が行かなかった「陽関」の写真も含まれている。
みんな元気で、また次の旅行に行こう!! 今度は、台湾へ温泉旅行なんか、どうですか?

 (巨大な敦煌駅)

 莫高窟)

 莫高窟・外壁)

 (鳴沙山と月牙泉


 (月牙泉)

 (鳴沙山の砂丘に登る)

 (キャラバン気分に…)

 (漢詩に謳われた”陽関”)


いまどきの敦煌(3)

2010年04月28日 16時27分51秒 | 中国

★決して謝らない中国人
 昨日、駐日中国大使が「日本側に責任がある」という談話を発表していた。これは、中国海軍が宮古島近海を通過して太平洋に出て南鳥島に近づいたのに対して、海上自衛隊の艦船が追尾したところ、中国海軍のヘリコプターが巡視艇に異常接近したという事件を巡っての発言。
 その少し前には、上海万博テーマ曲の盗作問題が浮上した。盗まれた側の岡本真夜事務所は、抗議することもなく、万博のテーマになって光栄だというようなコメントを発表したので、これは中国の思うつぼだと直感した。案の定、話は奇妙にそらされて、中国人”作曲者”は、あたかも岡本真夜に頼まれてテーマ曲としたかのような弁明をはじめた。
 3月末、私の娘が友達に会いに北京に行った。北京に住む友人が開口一番娘に「人にぶつかったとき、先に謝っちゃダメだよ」と言ったそうだ。
 個人的なレベルでは、この程度の話で住むのだが、外交関係となるとどうなのか?何があっても自らの過ちは認めず、最後には「歴史認識カード」を持ち出す。煮ても焼いても食えない…これが中国の真の姿だ。

 
(回族=イスラム教徒の物売り 蘭州・黄河鉄橋にて)


★平気で列に割り込む中国人
 北京空港の待合いロビーでも経験したが、国際線を待つ中国人でさえ、整列して待つことができない。日本人が並んでいた列に接ぎ木をするように列ができて、いつの間にか「人」という字のような列ができあがった。これがもし、指定席ではない乗り物だったら、どちらの列が正しい列なのかと言い争いが始まり、うんざりするような目にあうことは間違いない。私は終始見ていたのだが、枝葉の列を作ったのは中国人達だった。それでも、言い争いになれば「黒を白と言いくるめる」彼らの能力が存分に発揮されることだろう。

 (マナーの悪い中国人観光客 西安・華清池にて)

★博物館でさえ「骨董品」を売りつける中国人
 西安で連れて行かれた博物館(陝西省博物館)での出来事。新しい建物で、これといった展示品もない。それでも展示物の由来を聞かされたあげく、別室に通されて館員が玉の土産物を執拗に勧める。大雁塔にいったときは、著名な高僧の書を安く頒布するとかで、これまた別室に通された。敦煌博物館でも、同じようなことが…。公共施設という概念がなくなり、公務員でももはやカネもうけしか頭にないのだろうか、と思った。


(西安・大雁塔で会った人民服の老人~列を譲ったら「どうぞ」と日本語で応えた)

★どうしてこんな中国人になったのか…
 上海万博の期間中、会場近くでは住民が洗濯物を通りに干してはならないそうだ。だが、そんなことはお構いなく平気で干している住民が多いようだ。市警が注意すると、注意されたオバサンは「文革時代だったら、反革命分子だよ!」と舌を出していた。たくましいというか、図々しいと言うべきか分からないが、これが中国人だということか。
 われわれは「新中国」「四千年の中国文明」などという言葉にすっかり惑わされてきたが、いま目の前にいるのは礼儀知らずで、どん欲で、人を人とも思わない、溢れるばかりの人数の中国人だ。その昔、毛沢東の中国を褒め称え、日中友好を叫んだ連中は、この現実をどう”総括”するのか?

 結局、中国を語ることは、群盲象を撫でるというお話にすぎなかったのか…。この厄介な隣人は、ますます強大になって、新たな難題を吹きかけてくるはずだ。




 


いまどきの敦煌(2)

2010年04月28日 11時57分46秒 | 中国

敦煌といえば、もう30年以上も前、NHKの特番「シルクロード」で一般の日本人にも有名になった。井上靖の小説でもすでに有名だったが、この番組で初めて紹介された映像でロマンティックな旅情をかき立てられた人も多いはず。そのためか、ツアーに参加したのほとんどは中高年世代で、中にはひとりで参加した70歳代のご婦人もいた。

 (清朝時代の版図)

この図は、清朝時代の「中華帝国」の版図(支配領域)を示すのだが、敦煌は長城の表示が切れた部分にある。「甘粛省」の西はずれの「新彊ウィグル自治区」へ続く河西回廊に位置する。
東京ー北京は約2,100km、東京ー敦煌は、もちろn直行便などないが、西安・蘭州経由で、およそ5,200kmというところか。この距離は、東京ーシンガポールとほぼ同じなので、中国内陸部の広大さがよく分かる。

(清朝時代の冊封制度)

歴史的に見ると、中華帝国がひとつであったことは一度もない。最大の版図となった清朝時代でも、チベットや台湾は清朝の統治が及ばない「化外之民」が住む地だった。万里の長城を境にして農耕民である漢民族と遊牧民が興亡を繰り返した歴史が「中国史」だ。
私たちは、蘭州から敦煌までおよそ1,100kmを夜行寝台列車で移動した。朝早く車外をみると、砂漠というよりも乾燥した黄色い大地が延々と続いていた。「瓜州」駅を出てからだろうか、荒野の中に千基以上もあると思われる風車群が見えた。最新型の風力発電用風車だ。

 (真新しい敦煌駅)

ようやく着いた敦煌駅は、想像以上の巨大な建物。何もない砂漠の真ん中にドカンと建てたという印象。大きくて見栄えがする建物が大好きな中国人の好みがよく反映されている。「西部大開発」の象徴的な建築物なのかも知れない。

 (莫高窟)
 (新築の仏塔から莫高窟を望む)

(左:莫高窟と土産物店   右:莫高窟とオッサン”四人組”)

敦煌市内は、この10年くらいの間に整備されたという印象だ。ガイドブックによれば、街の人口は2万4千人と書かれていたが、市の中心部にある沙州市場というマーケットのにぎわいを見ていると、もっとずっと大きな街ではないかと思える。


(左;沙州市場の風景  右;敦煌市街の大通り)

莫高窟の仏像・壁画は、中国の歴史文物の中でも超一級品なので、観光客が参観できる範囲は極めて限られている。入場にあたってはカメラを預けなければならないし、窟の中は暗いので、懐中電灯は必携だ。カメラは持ち込めないが、携帯電話はOKというのも奇妙だった。多分、中国人の携帯電話には、カメラ機能が付いていないのだろう。

莫高窟と並ぶもうひとつの観光地が鳴沙山。ここは文句なしに、砂漠気分を味わえる。約30年前、私の父(故人)がここを訪れているので、写真を持参して”供養”した。そんなセンチメンタリズムをぶっ壊すかのように、砂漠には観光用ラクダの糞が沢山落ちていた。

(月の砂漠?)
 (父の写真と鳴沙山)

30年前は誰も訪れることのなかった鳴沙山だが、今や有名な観光地。入場料も取られるし、私などは砂山の中腹で「写真を撮ってやる」と言われ、自分のカメラを渡し、ポーズを取って4枚撮ってもらったら、チップを要求された。「チップは禁止なんだが、撮ってあげただろう」と言っているようだったので、5元を渡した。
グループの行動をビデオカメラで取っている人がいたのを気づいていたが、我々の映像を収めたDVDをホテルまで売りに来た。1枚2500円だったと思うが、これは結構な商売だと感心した。もちろん、写真を勝手にとって売りつけるという商売は、あちこちに見られた。

かつての西域も今や金次第のニュータウン。少数民族の文化・居住領域が、漢民族によって次第に浸食されているプロセスを見たようで、何とも言えない気分になる。漢民族による経済発展のおこぼれにあずかれれば、チベット・ウィグルなどの少数民族は現状に甘んじるのだろうかと……。


 


中国人が好きな文化遺産

2010年04月22日 21時27分59秒 | 中国

悠久の歴史を誇る中国だが、実は古い文化遺産はそれほど残っていない。今回の旅行でそのことを実感した。
例えば、西安の華清池(写真)は、唐代(8世紀半ば)に建てられた温泉施設で、かの「長恨歌」(白居易)にも詠われた場所だ。だが、そこに現存する建物の多くは、この20年ほどに建てられたものばかり。この夏、中庭の池に造られた舞台で「長恨歌」の歌劇が演じられるという。ライトアップした野外劇場で、ワイアレス・マイクとPA(拡声装置)をばっちり使った劇になるらしいが、これではミュージカルと言った方が相応しい。

この華清池は、西安事件の舞台にもなったところ。1936年蒋介石はここで保養していたが、張学良に襲われ、第二次国共合作を余儀なくさせられた。文字通り「中国革命の転機」とされる事件で、この事件がなければ、中国共産党が中国全土を支配することはなかったかも知れないのだ。しかしながら、中国人はそんなことには全く興味がないらしく、ただただ大きく派手なモノを愛でるという習性があるようだ。

 (西安・華清池  建物は新築)

次の写真は、兵馬俑博物館の入り口にある兵士と女の子の巨像。秦の始皇帝時代の軍人と今様の少女の漫画的な組み合わせ。両方の目玉には電球が入っていて、操り人形のように動く。これを変だ?と思う中国人はいないのだろうか。史実の検証などおかまいなく、派手なものに「好・好(ハオ・ハオ)」と群がる中国人の感性は、やはり日本人とは大いに異なる。

 (西安・兵馬俑博物館 不気味な巨大人形)

西安から1,800kmも離れた敦煌でも同じようなモノを見た。下の写真だが、これは敦煌の遺跡などではない。何年か前に日本映画「敦煌」を撮影した際に造られた映画セットを「国家AAA級公園」として観光地にしているのだ。こういうのを日本語で「人のふんどしで相撲を取る」というのだが…。 現実には「相撲を取る」のではなく、多額の入場料を取っている。

 (敦煌・映画のセットが観光地に)

結局、中国には思ったほどの歴史遺産は残されていないことを知る。戦乱の果てに破壊された遺跡・文物も多いのだろうが、40年前の「無産階級文化大革命」で現代の中国人自らが破壊した歴史遺産も数多いはずだ。今の中国は、そのことを全く総括していない。きちんと総括すれば、中共政権は永くは続かないだろう。だからこそ現政権は、中華民族の優越性を誇示する愛国主義を煽り、本来排外的で尊大な中国人をますます増長させている。

何にしても、中国が厄介な隣人であることには間違いない。そのことを痛感する。


いまどきの敦煌

2010年04月20日 23時43分20秒 | 中国

昨日、中国旅行から帰ってきた。北京経由で西安・蘭州・敦煌を訪れた。旅行の初日(14日)に青海大地震が起きたことを西安のホテルで知った。旅行中、TVのニュースは、この地震報道ばかりだった。青海省と言えば、チベット(西蔵)人が多く住む高原で、文革中には多くの紅衛兵が”下放”させられた貧寒の地でもある。TV報道では、中共政府がいかに救援に尽力しているか執拗に強調していた。
帰ってきて知ったのは、アイスランドの噴火で欧州への航空便がストップしていて、外国人観光客が足止めされているというニュース。天変地異はいつどこでおこるか分からないと実感した。
成田空港で足止めされた外国人には、毛布が配られシャワー室も開放されたと聞く。成田市では、希望者に無料市内見学を実施するという。中国では外国人に対して、このようなきめ細かい配慮がなされているとは到底思えないのだが、どうだろう。



午前中、近くの某国立大学に授業を聴きに行く。国際関係論の中の「国際関係史」という科目だが、S教授が冒頭で最近放送されたNHKスペシャル「日韓併合への道」を見たかどうか学生に尋ねた。私は見られなかったのだが、S教授から見れば、定見を持たない曖昧な番組であり、少しは英国BBCの制作態度を見習うべきだと言われた。
卒業生の多くが海外勤務をする大学なので、S教授は学生達に「日本人として説明できる歴史知識を持て」と勧めていた。もし、米国に駐在してパール・ハーバーの話が出たら、それでは広島の原爆はどうなのですか?と応えなければならない。ましてや中国・韓国に行ったら、自分たちの歴史を知った上で彼らの理屈に対抗できなければだめだ。彼らの主張は、麻雀をしていて、満貫で上がろうとしていたのに、日本が素早く「ロン!」したことを、おまえ(=日本)が悪いと責めているようなものだ。近代世界は、各国・民族が人類史上初めて参加するゲームのようなものだったので、それに加わりながら、相手の成功を逆恨みするのは間違っていると説明された。 同じようなことは私も感じていたので、我が意を得たりという思いだった。



30年前、亡き父が敦煌・ウルムチを訪れたときは、見渡す限り何もなく、莫高窟(ばっこうくつ)には文物研究所があるだけだったと聞く。訪れる外国人も少なかったので、研究所の所長が自ら説明をしてくれて、写真を撮るのも自由だったそうだが、今や莫高窟にカメラを持ち込むことさえ許されない。
半ば予想していたとは言うものの、莫高窟の周りには目新しい仏塔や門が建てられ、テーマパークのようになっていた。有名な鳴沙山では、ラクダの騎乗や砂山のソリ滑りが大流行。もちろん、どこへ行くにもかなり高額の入場料を支払わねばならない。

まあ「近代化」なるものは、そんなものだと思えなくもない。だが、実在しなかった仏塔を建ててしまったり、とっくの昔に破壊されてしまった宮殿や寺院をどんどん「復元」してしまうのはいかにも中国らしい。日本人と中国人との歴史感覚の違いをここでも実感した。


「地溝油」が気になる中国旅行

2010年03月30日 16時33分45秒 | 中国

下水道の排水から”リサイクル”した「地溝油」が今、中国で問題になっている。中国の食用油の年間消費量2,500万トンのうち一割が、「地溝油」と呼ばれるこの廃油。食べただけでは、味などに違いはなく、しかもコストが何分の一かで済むということで、これを使用している食堂・レストランも多いようだ。だが、この油は、発ガン性物質を多く含み、場合によってはヒ素の100倍も危険なのだそうだ。

(敦煌)

近々、ツアーで西安と敦煌に行く予定だが、「地溝油」の件がひっかかる。中国都市部の富裕層はレストランにいくとき、「マイ(My)油」を持参して調理を頼むそうだ。流通している一割が「地溝油」であれば、外食時に遭遇する可能性は、一割どころかさらに高くなるからだ。

ツアーでの食事は、選べないので、基本的にツアー会社を信用するしかない。本当に大丈夫なのだろうか大手のJ社は…!?

 毒入り餃子事件の顛末をみても、中国側の言うことは全く信用できない。あの開き直りと責任転嫁の調子で「地溝油」の取り締まりをやっているのだろうか。外国人観光客の安全など考えているとは到底思えない。
大陸の文化遺産は確かに魅力的だが、現実の中国社会は非人間的で排外的なコネ社会。その殺伐たる中国で、会社のため家族のため働いている日本人には、少なくとも”食の安全”は確保されて欲しい。

敦煌の仏像は、まさか「地溝油」などご存じでなかったはず…。


 


中国で蒋介石ブームの謎

2010年02月11日 11時41分00秒 | 中国

今朝の「産経新聞」に「中国で蒋介石ブームの謎」という記事が載っている。

http://sankei.jp.msn.com/world/china/100211/chn1002110124001-n1.htm

これを見て、今から35年以上前の北京で、故・衛藤瀋吉氏(東大教授・中国政治史)が「蒋介石もまた愛国者であったかも知れない」と発言して、北京当局の”激怒”を買ったというエピソードを思い出した。当時の「朝日新聞」などは、この発言を「日中友好」を阻害する発言だとして問題視した。

だが、先の「日中歴史共同研究」のレポートでも分かることだが、中国側の”歴史認識”なるものは、時の権力者の都合によって勝手に書き換えられるものなのだ。このことだけは決して忘れてはならないだろう。 でなければ、日本は常に中国の「歴史認識カード」によって翻弄され続ける。

衛藤教授はまた「大国におもねらず、小国をあなどらず」として、当時の「日中友好」ムードに釘をさした。「中華愛国主義」に歯止めがかからない最近の中国をみるたびに、衛藤氏の歴史を見る眼の確かさに舌を巻く。

「人民の敵」人気沸騰? 中国で蒋介石ブームの謎
  歴史学者による蒋氏の再評価も進められ、各地では蒋氏に関するシンポジウムが開催されている。1月中旬に江西省廬山で開かれた「蒋介石日中戦争」をテーマとするシンポジウムでは、中国と台湾の学者約50人が参加し、双方は日中戦争で果たした蒋氏の業績を高く評価することで一致した。従来の中国では「蒋介石日本軍の侵略に抵抗しようとしなかった」との見解が主流を占めていた。
 独立の動き牽制か<o:p></o:p>

 ただ、中国当局が蒋氏を積極的に再評価するのは、蒋氏を尊敬する台湾の馬英九総統に善意のメッセージを送るためだとの指摘もある。「中国との統一」を主張する蒋氏を持ち上げ、台湾の独立の動きを牽制(けんせい)して、統一に向けた工作の一環という見方も浮上している。<o:p></o:p>

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娘達が見た北京

2010年01月24日 22時44分57秒 | 中国
この週末、長女が中学校時代の友人が働いている北京に行って来た。久しぶりの再会なので、ホテルでずっと話すのだと言っていたのが、せっかくだから天安門と故宮だけは見た方がいいとアドバイスした。だが、結局、天安門には行かなかったそうだ。

実は、一番知りたかったのは、20代半ばになる娘達が北京をどう思うのかということ。先月、台北に行ったばかりなので、台湾と中国の違いをどう感じるのだろうか。

まず、サービスの違い。北京のホテルやマーケットでは、店員が無愛想で、やる気がない印象。これは台北との大きな違いだという。客の様子もずいぶん違う。その友人の話では、外食するときなど、北京人は最大限に着飾り、金持ちに見えるよう見栄を張るという。そう言えば、台北観光に来ていた中国人は、一様にキンキラキンに着飾り、一般の台湾人とは異質な雰囲気を醸し出していた。

北京の友人は、大通りで人にぶつかったら、すぐに謝ったりしてはいけないと釘を指したそうだ。「対不起」と謝ったら、こちらの非を認めたことになる。相手が謝らないのならその必要はないという。長期間北京にいる彼女は、日本人は経済力も技術力も抜群に優秀であるのに、決して威張らない。もっと強い態度に出てもいいのにと思うことも多いそうだ。

この話を聞いて思い至るのは、やはり「中華思想」という言葉。庶民のレベルでは、弱者に対する尊大、強者に対する卑屈という形で、この「中華思想」は現れる。今は敵わない相手と見れば面従腹背の態度を取り、自分が勝つと思えば居丈高に襲いかかる。日中関係を振り返ると、個人でも国家間でもこの繰り返しだったことが分かる。これが「中華思想」の実体なのだろう。

娘が買ってきてくれたキーホルダーには毛沢東の肖像が刻まれ、裏には「好人 一生平安」と書かれていた。何と皮肉な言葉だろうか。この独裁者が大躍進と文化大革命でどれほどの人民を死地に追いやったのか、若い娘は知らないようだ。


日中友好人士・安藤彦太郎の死

2009年10月29日 12時26分16秒 | 中国

 今朝、このブログのデータを確認したら、「安藤彦太郎」でアクセスしたものが、20件近くあったので驚いた。これは、私がこの人について書いたことがあるからだったが、いまだかってそんなに多くのアクセスはなかった。その結果、知ったのは安藤氏の訃報だった。

http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/e/14313c7d2a0c27d77a91de65684c827f

 若い人はもはや知るよしもないだろうが、この安藤彦太郎(早大政経学部教授・中国語、中国経済論)という人は、60年代末から70年代前半にかけて、「文革礼賛派」の知識人として有名だった人だ。ネット上では、この人についての書き込みもほとんど無いので、完全に過去の人になっていた。

 1970年代前半、私は、この人の授業を聴いたことがある。といっても、早大生である友人に教えてもらって、わざわざ聴きに行ったのだ。当時、中国文化大革命を現地で実際に見聞した人として、安藤氏はよく知られていた。「中国通信」(大安書店)という著書には、いかに中国の文革が正当か、現代マルクス主義の矛盾を克服する戦いであるか等々、今思えば見当違いで噴飯ものの内容が書かれていた。
 同時期、早稲田の政経学部には、新島淳良という教授(中国語)がいて、この人は毛沢東を礼賛し、新左翼の理論家としても知られていた。
 全国に学園紛争が蔓延するなかで早大政経学部は、突出した中国礼賛派(=日中友好運動派)の拠点だったのだ。

 だが、実際に安藤氏の講義を聴いて、私はがっかりした。「中国経済論」と題した授業には、全く「経済」の話など出てこず、日中関係史のとりとめもない羅列という内容だった。自分の自慢話も多く、学生時代(早大政経学部)は「財政学」だけが「良」で、その他は「優」だったが、全優ではなかったので、「満鉄」に行かずに済んだと話していた。これは、「満鉄」に就職していれば、中国側からは白い目で見られてしまうので、文革期に中国へ招待されることはなかっただろうという意味だ。中国に招待され、日中友好運動の先頭にたっていることが自慢でならないのだろうとそのとき思った。
 私のいた大学では、宇野重昭先生(現・島根県立大学学長)が兼任講師として「中国共産党史」という科目を教えていた。この授業は今でも記憶に残る素晴らしいものだったので、安藤氏の授業があまりにお粗末なのに驚愕した。

 中国の言い伝えに「人の評価は棺を覆って決まる」という言葉があるそうだが、92歳で死去した安藤氏のニュースはどう採り上げられたのか。「朝日新聞」は次のように報道している。

早大名誉教授・近代日中関係史の安藤彦太郎さん死去

2009年10月27日23時19分  朝日新聞

写真安藤彦太郎さん

 安藤 彦太郎さん(あんどう・ひこたろう=早稲田大学名誉教授・近代日中関係史、日中学院名誉学院長)が27日、膀胱(ぼうこう)がんで死去、92歳。葬儀は近親者のみで行い、後日、お別れの会を開く予定。喪主は妻陽子さん。

 60~70年代を中心に、中国や日中関係について発言。「毛沢東選集」日本語版の翻訳に協力したほか、戦後50年の95年に開設された日中歴史研究センターのセンター長を務めた。著書に「中国語と近代日本」「虹の墓標 私の日中関係史」など。


 興味深いのは「60~70年代を中心に、中国や日中関係について発言。」と曖昧に書かれていることだ。さすが中国に甘い朝日新聞ならではの記事だ。だがこの時期の安藤は、「文革中国」を礼賛し、返す刀で自分の国である日本社会を批判した、と総括されるべきだろう。"返す刀で”というのは、自分が特権的に見聞した中国事情を武器にして…という意味である。当時の安藤は、文革中国という”神”を奉る”司祭”の役割に自己陶酔していたのかも知れない。

 文革が”脱文革化”のかたちで収束すると、安藤は、自らの言説を自己批判することもなく、新中国指導部へのお追従を貫いた。新しい”神”は、またあちらからやってくる…。同僚・新島淳良が早稲田にいられなくなり、教授を辞し「ヤマギシ会」に走ったのとは対照的に、安藤は最後まで早稲田大学教授のポストに座り続けた。

 早稲田大学は、その授業の質はともかくとして、学生数が多く、なかには優秀な学生もいるので、安藤のような教授でもその影響力は看過できない。特にマスコミに行った学生には、彼の影響を受けて、親中国的感情を今なお持ち続けている人も多いのではないか。
 対照的に、慶應大学の故・石川忠雄氏(中国政治)は、文革を批判し、中国政治を冷徹に分析した。そのゼミからは、多くの中国研究者を輩出している。一方、安藤は、誰一人として著名な研究者を育てられなかった。これは、安藤自身が、何ら実証的な研究実績を残さなかったのだから、無理からぬことだ。

 こういう安藤氏に対しては、ちょっと酷な言い方かも知れないが、古いタイプの活動家の死という表現が適切かも知れない。日本共産党の細胞活動、内部分裂した日中友好運動のなかでの抗争、こういう左翼、反体制運動が生き甲斐だったのだろうか。学問に生きた人というよりも、政治家、活動家の体質を強く感じさせる人物だった。中国人が古くからの友人だと称する「日中友好人士」とは、おおむねこのような人たちなのだろう。中国で一番有名な日本の大学が、東京大学ではなく、早稲田だというのも、もしかして安藤教授の”功績”のひとつなのかもしれない。

 だが、現在の中華民族主義(=中華思想)の中国、反日の中国を育て上げた責任の一端は、安藤のような「日中友好人士」にあることをわれわれは忘れてはならないだろう。



礼儀知らずの中国人

2009年08月02日 13時17分42秒 | 中国
YouTube上にUPしている映像に対して、ある中国人が次のように書き込んだ。

「日本人 手淫专用视频}(日本人のマスターベーション用映像だ)

映像というのは「米国から見た日本の台湾統治」というタイトルで、米国ディスカバリー・チャンネル制作のTV番組「知られざる台湾・台南」の一部。この番組の中で、日本の台湾統治が台湾の発展に寄与したと評価されているのが、その中国人には気に入らなかったらしい。中国人というのには、根拠がある。「专用视频」という簡体字が使用されているからだ。台湾人であれば「専用…」と書くところだろう。

これに対しては、早速、「 負け犬の遠吠え!恥ずかしい奴等だ!」という書き込みが加えられた。泥仕合になるのも困るのだが、何故、特に問題のない映像に対して、中国人はこれほど過敏になるのか?

中国政府は、「法輪功」や少数民族の動向に神経質になっていて、ネット上の取り締まりを厳しく行っている。「反政府」的言動があれば、とことん処罰している。しかし「反日」的言動は、むしろガス抜きとして、”奨励”されている節(ふし)がある。

日本への悪口が中国政府公認ならば、「日中友好」などという言葉はどこに行ってしまったのか? 国力、経済力が劣っているときは、ひたすら愛想を振りまくが、自らが優位に立ったと判断したとたん、居丈高に振る舞う。こういう無礼な中国人の態度こそが、「中華思想」とよばれるものに由来するのだろう。

入管法の改正によって、台湾人の国籍表記が「中国」から「台湾」に変更されたが、これはご同慶の至りだ。台湾の人達は、礼儀知らずの中国人とは一緒にされたくはないだろうから…。

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得利

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新疆ウィグル自治区の反中国政府暴動

2009年07月06日 16時35分53秒 | 中国

チベット暴動に続いて、さきほどから新疆ウィグル自治区の暴動が伝えられている。中国当局は、チベットのときはダライ・ラマ亡命政権の策謀、今回は国外亡命中の「ウィグル同盟」の扇動によるものだと強弁するが、真の原因は漢民族主導の強引な民族政策に対する反発であることは明らかではないか。

「日中友好」という言葉は今や死語、「戦略的パートナーシップ」とかいう言葉にすり替わっているが、結局、これは「すっかりおいしいところはいただいた。これからはオレの言うことを聞くんだぞ!」という意味なのか。長期的に見れば、台湾は言うまでもなく、日本でさえ中国の軍門に下るという”悪夢”が現実味を帯びてくる。
ますます尊大になり、中華思想まるだしの中国にストップはかけられないのだろうか?



中国ウイグル自治区の騒乱、新華社は140人以上死亡と

(CNN) 5日に中国新疆ウイグル自治区で発生したウイグル人の騒乱について、国営新華社通信は6日、少なくとも140人が死亡、800人以上が負傷したと伝えた。死者数は今後も増えると予想されている。

中国政府は、国外のウイグル人活動家らが漢民族襲撃を扇動したと主張。ただし海外亡命中のウイグル人らは、公安当局が平和的に抗議活動をしていたウイグル人らに強硬措置を取ったとの見解にある。

中国南部・広東省韶関市の玩具工場では先月、ウイグル人従業員と漢民族従業員が衝突し、ウイグル人2人が死亡した。今回の騒乱はこの事件を受け、区都ウルムチ市内でウイグル人が行っていた抗議活動が発端。目撃者がCNNに語ったところによると、抗議活動が5日午後5時頃に始まった後、参加者は女性や子どもを含めて1000人以上に膨らんでいた。

現場に駆けつけた警官隊が道路にバリケードを築いて参加者らを抑え込もうとしたものの、参加者らが警官隊を圧倒し、「通り過ぎる車やバスに投石していた」とされる。騒乱がエスカレートすると何百人もの武装警官が出動し、催涙ガスや消防車の放水で参加者らを排除。この時トラックや救急車、戦車のような装甲車が目撃され、散発的な銃声が聞こえたという。騒乱を受けて、現地では夜間外出禁止令が発令された。

新華社によると、一夜明けた6日午前に交通規制は一部解除されたものの、ウルムチ市内の情勢は依然緊迫している。路上に散乱していたがれきは撤去され、交通量は平常に戻ったが、騒乱による被害が最も深刻だった道路では破壊された車両の撤去作業が続いている。騒乱発生地区では、商店や企業が依然再開していない。