澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

中国で「繁体字」の使用再開を提案

2009年03月09日 18時10分26秒 | 中国

現在、台湾と香港で使われている漢字、すなわち「繁体字」について、興味深いニュースが流された。

全国政協委員、繁体字の使用再開を提案

2009年3月9日14時56分

 全国政協委員の潘慶林氏は今年の両会で、現在中国で使われている簡体字を今後10年間で段階的に廃止し、繁体字の使用を再開することを提案した。「繁体字の利用は中日文化交流にも役に立つ」と潘委員は指摘する。


 天津から来た潘委員は、1985年から1989年まで日本に留学した経験を持つ。日本を訪れた昨年9月28日には、日本僑報社が創設した日曜中国語会にも参加し、日本人参加者との交流も行った。潘委員はこの中で、中国と日本はいずれも漢字を使う隣国同士であり、両国関係はとても重要だとの認識を示した。潘委員はさらに、日本僑報社の開催する中国語会を評価し、中国文化の学習に対する日本の人々の熱意や日本人が繁体字を使用していることに感動をおぼえたと語った。潘委員はその後、さまざまな調査と研究を経て、繁体字使用の再開に向けた議案を政協会議に提出した。


 潘委員は議案の中で、繁体字の使用を再開すべき理由として次の3点を挙げている。(1)50年代に行われた漢字の簡略化はあまりに大ざっぱで、漢字の芸術性や科学性に反するものだった。例えば、「愛」という字は簡略化の際に「心」が省かれたが、これでは「心のない愛」ということになってしまう。(2)繁体字は以前、「あまりにも複雑で学習にも筆記にも向いておらず、漢字の普及に差し障る」と考えられていた。だが、多くの人がパソコンで漢字を変換する現在、複雑であることのデメリットはほとんどなくなり、簡体字の存在意義も徐々に失われつつある。(3)繁体字の使用再開は大陸部と台湾との統一に役立つものとなる。台湾では依然として繁体字が使われており、これを「正体字」と呼んでいる。「正体字」を世界無形遺産に申請しようとの動きもある


日本では、倉石武四郎をはじめとする中国文学者が、「新中国」の「簡体字」を支持して、岩波書店から発音表記の「中国語辞典」を出版したりした。大陸中国では、漢字(繁体字)が支配階級・知識人の「支配の道具」であるという主張から、漢字の簡略化に踏み切ったのだが、例のごとく日本でも追従者がいたのだった。

「簡体字」の本家である中国から、上記のようなニュースが飛び込んでくるとは、本当に驚かされた。パソコンの普及が理由に挙げられているが、確かに中国は豊かになったという証左だろうか。

しかしながら、そこはしたたかな中国のことだから、「繁体字」使用の提案が、台湾への懐柔政策である可能性も棄てきれない。


井上隆一氏(大東文化大学)の著作

2009年02月19日 20時25分52秒 | 中国
井上隆一氏(1910-1987)は、中国語学者で元・大東文化大学教授。
残念ながら現在、著作のすべてが絶版になってしまっているが、その中国および中国人に関する理解・認識の深さは、今なお輝きを失っていない。

「毛主席の袖」「中国の風と光~中国に暮らして」というふたつの著作は、戦前の中国体験に基づいて書かれたエッセイ集だが、日本人とは全く異なる中国人の人生観、生活感覚が詳しく記録されていて、時代を超えた今なお教えられることが多い。

1960-80年代初期までに書かれた日本人の中国論は、もはやゴミ箱入りになったものが圧倒的に多い。それらは特定のイデオロギーに基づき、「新中国」に夢を仮託したに過ぎず、本当の中国を見ていなかったためである。本ブログでも採り上げた安藤彦太郎氏(元・早大教授)などはその典型である。

井上隆一氏は、中国人というものを知り尽くし、心から中国を愛した。それはイデオロギーとは無縁だったので、時代を超えることができるのだ。
教育者としても、多くの学生に「本当の中国」を知らしめる努力を惜しまなかった。今なお氏の面影を偲ぶ人は数多い。

ぜひ、著作の再刊を期待したい。



鉄道游撃隊 (1980年)
知 侠
竜渓書舎

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毛主席の袖 (1974年)
井上 隆一
明治書院

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中国の風と光と―中国に暮らして
井上 隆一
白帝社

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安藤彦太郎教授の”真実”

2009年01月31日 05時50分00秒 | 中国

「日華事変と山西省」というウェブサイトに興味深い記事を見つけた。
このHPの筆者は、中国・山西省と関わりのある人らしく、日中戦争期のかくされたエピソードを採り上げている。
その中で興味をひいたのが、次の記事である。全文に近くなってしまうが、引用をさせていただく。


孫東元さんの人物像―安藤彦太郎『虹の墓標』批判

かつて文革を評価した親中派の論客として著名な早稲田大学名誉教授の安藤彦太郎。安藤が1995年に勁草書房から出版した『虹の墓標―私の日中関係史』は、安藤の記憶に残る20人の中国人との交遊の思い出が書きつづられている。郭沫若、周恩来、廖承志などそうそうたる人物とともに、戦争体験談で紹介している孫東元さんも登場している。表紙をめくると、当時孫さんと一緒に撮影したとする写真が載っているが、そこに写っている顔は確かに若かりし頃の孫さんといって良い顔だ。しかし、一章(60~67頁)をさいて安藤が紹介している孫さんとの思い出話は、このホームページで紹介している事実と大きく異なっている。

安藤は孫さんを、1937年(昭和12年)の廬溝橋事件を機に帰国していった愛国学生の一人として描いている。安藤は「孫君はひたすら事変の不拡大をねがい、医学を身につけるまでは、と頑張っていた。だが、ついに七月末に孫君も引き揚げることになった」(64頁)とし、留学生活を三週間で切り上げ、博多から船に乗って天津経由で帰国したという。しかし孫さんは官費支給がうち切られた後も日本に残り、1940年(昭和15年)まで九州医専で私費の留学生活を続けている。廬溝橋事件の時に帰国した事実はない。

安藤にとって孫さんは愛すべき祖国のために生きようとする立派な愛国学生として記憶されており、その思いは次のようなエピソードに込められている。
孫君は熱烈な愛国者で、こう言った。「僕は日本に来て良い日本人をたくさん識った。君はその一人で、僕の心の友と言っていい。でも君は、日本の兵士として召集されて中国に来るかもしれない。僕は帰国して抗戦に参加する。そして戦場で君に逢ったら断固として君を刺し殺す」。そのとき、マルクス・ボーイであった私は「いや、そういう考えかたは小児病的ではないかな」と、利いたふうな答えをした。するとかれは眉を揚げて、「でも僕は君を刺し殺す以外にないのだ」と言い切った。(64-65頁)
そして7月30日頃に東京駅で安藤は孫さんを見送り、乗船の直前によこした手紙を最後に消息が絶えたとする。安藤は「気性は激しいが快活で、ときおり皮肉な笑いを浮かべるおもしろい青年だったが、抗戦のなかで死んだにちがいない」(67頁)とし、あくまでも抗日に命をささげた愛国学生と記憶しているようだ。しかし孫さんは抗日どころか、一時帰郷中は傀儡政権が設立した医学専門学校で教壇に立っていた。たとえ"心の友"であっても、日本人=敵である以上"刺し殺す"と涙を浮かべて主張するほどの愛国心に固まった青年像。安藤が著書で描くその姿と、傀儡政権に職を得た事実から受ける印象には大きな隔たりがある。

安藤は著書の中で、当時の日本では反中・嫌中の嵐が吹き荒れ、孫さんをはじめ中国人が肩身の狭い思いや身の危険を感じていたという印象を与える書き方をしている。しかし、違和感がある。孫さんは、保証人を引き受けた布施先生をはじめ学友たちも皆が戦争前と全く変わらず接してくれたとし、むしろ戦火の広がる祖国を心配してくれた彼らへの感謝を今でも忘れないと語っている。安藤の日本人と中国人との関係についての見方は、もうひとつのエピソードでも違和感を与える。安藤は孫さんが"帰国"したあとに父親の達生さんから手紙が届いたとしてその内容を紹介しているが、それは父が日本留学時の自分の経験からして「日本人は中国人を軽蔑し、戦時はとくにひどいと思われるから、途中できるだけ日本人を装って帰るように」と指示したとする(67頁)。もちろん、彼はその手紙を自分が受け取って孫さんには渡していないと書いているから、たとえ孫さんが父親からそのような指示を受けた記憶がないと言っても不自然ではない。しかし孫さんは反対に戦火が迫りつつある太原に居る家族に対して当時なんら心配はしなかったという。日本の大学を卒業した知日家の父なら、日本軍が来ても全く心配ないと思っていたからだ。日本人を警戒して息子を帰国させようとする父親が、日本軍が攻めてくる太原に家族と一緒にそのまま居続けるだろうか。

安藤の書く孫さんとの思い出は、孫さんが自ら筆者に話してくれたものと比較して事実関係で大きな開きがあり、性格描写は正しい印象を与えるものの、人物像という点では正反対に近い。安藤が話を脚色しているのか、"愛国者"の振りをして孫さんが彼を騙したのか。すでに70年も前の話で、しかも当事者の一方である孫さんが既に他界している今、それを第三者が判断することは難しい。しかし少なくとも安藤が古き良き思い出として書いたこのエッセイは、次の事実によって痛烈な歴史の皮肉として彼自身に跳ね返ってくる。

安藤が評したように"気性は激しい"孫さんは、中共治下の集団狂気にも怯むことなく自己主張を続け、反動のレッテルを貼られて三角帽をかぶらされることとなった。安藤が中国共産党の治世と文化大革命を賞賛していたとき、孫さんは1950年代の反右派闘争から1970年代の文革終結までの20年もの間、政治的迫害を受けていた。現地の人は皆一様に、孫さんは「投獄されていた」という。判決を受け、罪人として獄につながれた。良く言われる労働矯正よりも深刻だったのだ。安藤はエッセイの中で「太原には一九六四年、北京シンポジウムの旅行で一晩立ち寄ったとき以外、行っていないが、いちど達生医院のことを訊ねたいと思う」(67頁)と呑気に書いているが、1964年に彼が太原を訪れたとき、父親の達生さんは毛沢東の失政で中国全土を空前の飢餓が襲っていた二年前に他界しており、孫さん自身は長治市の郊外に設けられた強制収容所にいたようだ。

戦後に孫さんが受けた迫害については詳しく聞き取りをしていない。精神的に限界までいったトラウマに触れることを恐れたからだ。孫さんの自宅には、部屋中に周恩来の写真(毛沢東ではない)が貼られ、一種異様な雰囲気を醸し出していたのを憶えている。足腰が弱くなり、移動には車椅子を使っていたが、迫害を生き抜いた老人は、同行していた省政府の歴史研究員を前にして「閻錫山の治世は素晴らしかった」「中共はスローガンばかりだった」と大きな声で堂々と話した。これぐらいの内容でも彼らのような戦前世代が口にするには相当の覚悟が今でもいるのだ。布施先生のご子息をはじめ、数年前に連絡がとれるようになった日本の同窓生からは学術誌が定期的に届いていたが、80歳を過ぎたその時も医学論文に目を通すことを楽しみにしていた。私が取材した数ヶ月後に他界した。現地の人たちは皆一様に彼の気質を「すごい」と評する。何度も復活を遂げた小平になぞらえて「不倒爺」とも呼ばれた。親日と反骨に生きた83年の人生だった。

            (「日華事変と山西省」より引用)

疑問符を付けられた著作は、安藤彦太郎著「虹の墓標ー私の日中関係史」(頸草書房 1995年)である。
著者である安藤氏は、元・早大政経学部教授(中国語・中国経済論)で、中国の文化大革命を賛美した「進歩的文化人」でもある。日本共産党員であったが、「日中友好」運動の分裂を巡って、共産党を除名され、「親中国派」文化人となった。文革期に「北京留学」という「恩恵」を中国から授かり、文革がいかに素晴らしいかというレポート(「中国通信」)を書き続けた。それは、当時の学生等に大きな影響を与えた。同僚で「文革礼賛派」でもあった故・新島淳良が、文革終結後、早大教授を辞して、「ヤマギシ会」に入ったのとは対照的に、安藤は早大教授のポストに座り続けた。

この人の変わり身の早さはすごかった。文革が収束すると、「文革礼賛」をすぐに引っ込め、新しい中国指導部のお追従を始めた。「学者」として文革を総括することもなく、その後は「中国語と近代日本」(岩波新書)というような、中国の威光を借りて日本を批判する本ばかりを出版した。

そういう安藤氏は知っていたが、上記の引用文献を見て、「そこまで不誠実な人だったのか」と改めて驚いた。
そういえば、安藤氏が育てた学者、研究者は皆無に等しい。自身の学問的業績も「満鉄ー日本帝国主義と中国」(お茶の水書房)くらいしかなく、早大以外の場所では評価もされていない。おそらく、早大内部の「日中友好運動」家として幅を利かせ、教授にまで登り詰めた人なのだろう。それはそれであの大学内部の問題なので文句を付けることではないが、自己の都合のため真実をねじ曲げる態度は、到底許されないことだ。
孫東元氏と安藤氏がどちらが真実を語っているのか、それは言うまでもないことだろう。安藤氏もいよいよ人生の最期を迎え、毛沢東と会う年齢となっているのだから、不誠実な自己弁護は止めるべきなのだが、「日華事変と山西省」の著者の問い合わせには次のように答えたという。

追記:安藤彦太郎氏からの手紙

安藤氏に手紙で事実関係を質問したところ、著書での記述はフィクションではないとの返事を頂きました。安藤氏は孫さんの談話内容との乖離について、「対日協力者の複雑な心境ではないか」と評しています。そもそも"対日協力者"であるのは私からの手紙で初めて知ったはずで、しかもその談話の内容は、(中共治下では)自らに不利な内容で、かつ嘘をつく必要のないものです。

安藤氏からの手紙を読んで、孫さんが雑談のなかで話していたことを思い出しました。「ある日本の古い友人が、戦前の私のことを本に書いているが、事実が違っているので訂正を求める手紙を出した」というものです。その本が安藤氏の著作がどうかは、孫さんが亡くなった今では確認できません。

文革」が「魂に触れる革命」などではなく、「世紀の大厄災」であったことは、今や明らかだ。当時、日本でも「文革」を礼賛した「知識人」「大学教授」が何人も出た。その多くは、後に自らの不明を恥じるのだが、安藤に限っては、全くそういうそぶりも見せず、「中国当局」へのお追従を貫いた。早大退職後も、「日中学院院長」として中国との太いパイプを持ち続けた。

「文革」期に安藤の言説に欺かれた若者は、今や疲れ切った還暦世代となった。
彼らが孫東元氏のエピソードを知れば、「安藤のようなやつが、うちの会社にもいるなあ~」と嘆息することだろう。その「安藤のようなやつ」は、きっとしっかり会社の中枢に収まっているのだ…。

「進歩的文化人」の悪しき典型がここにある。「人の評価は棺を覆ったとき定まる」という言葉があるが、上記のような疑念に何ら応えることなく、安藤氏は「上帝にまみえる」
というのだろうか。そこに毛沢東が待っているかどうか、それははなはだ疑問だが…。

 

最近の毛沢東論

2008年12月13日 20時58分53秒 | 中国
2冊の毛沢東論を読んだ。

1 「毛沢東」(ジョナサン・スペンス著 岩波書店 2002年)
2 「中国がひた隠す毛沢東の真実」 北海閑人著 草思社 2005年)





1は、英国人の歴史学者によって、1999年に書かれた本。あの岩波書店が選んだだけあって、権威があり、定評のある本らしい。(原書は「ペンギン・ブックス」)だが、その昔、スチュアート・シュラム、ジェローム・チェンといった人たちの毛沢東伝を読んだ記憶があるが、それらとどう異なるのかはよく分からない。あえて言えば、何故、いま出版するだけの価値があるのか、わからないという感じだ。

2は、キワモノ的な印象を与えるが、内容は核心を突いている。著者は中国在住の元共産党幹部党員で、香港の月刊誌「争鳴」に連載した記事をまとめたものが本書である。
現在の中国では、改革開放が始まった30年前よりも、毛沢東批判はむしろ後退している。大躍進や文化大革命という暴政は否定されたものの、毛沢東の評価は、誤りが3割に過ぎず、7割は肯定的とされている。
中国共産党史上、「富田事件」(ふでん)という紅軍将校の大量虐殺事件がある。スターリンが行った「カチェンの森事件」と同様の事件なのだが、もしこの真相究明がなされるならば、真の毛沢東批判が進行するだろうと言われていた。ところが、この事件は結局、タブー扱いとされ、現在に至っている。

著者は、この事件を分析し、毛沢東の差し金だったと断定する。また、延安整風運動が、毛沢東自身の権力確立のための策謀だったと主張する。これについては、1の著者でさえも、毛沢東の「イメージ戦略」であると記している。

かつて「延安整風運動」は、エドガー・スノウによって世界に紹介され、中国革命の核心であるとして高く評価された。ところが、この整風運動をもうひとつの側面から見れば、毛沢東の絶対的権威を確立するための陰謀でもあったのだ。延安そのものが、外界から孤立した世界であり、マインドコントロールを施すには格好の場所だった。「オウム真理教」のサティアンのようだと言ったら言い過ぎだろうか。

中国国外の毛沢東に対する評価は、いまや「暴君」「病的な独裁者」という方向に収斂しつつあるようだ。かつてロマンティックに「中国革命」に夢を託した、日本の若者も今や老年を迎えた。彼らは、新しい毛沢東伝を読むたびに、中国に生まれなくて良かったと思うに違いない。

「零八憲章」(08憲章)の検証

2008年12月12日 20時55分53秒 | 中国

中国の民主化を訴える「零八憲章」がネット上に登場し、中国当局は神経をとがらせているそうだ。今日の朝刊でこのニュースを採り上げたのは「産経新聞」のみ。「産経」は「反中国」だからと思う人もいるだろうが、文化大革命時期、もっとも正確な中国報道をおこなったのが「産経」だったことを忘れてはなるまい。

今週、NHK・BSでは「中国・庶民の改革開放30年」という特集を放送しているが、第2回の「革命の聖地・延安」では、朝令暮改の農業政策に翻弄される農民の姿をレポートしていた。開放改革政策で自営農地を与えられた農民が、たばこなどの商品作物でもうけをもくろむが、地元政府の役人によって必ず潰されてしまう。その53歳の農民は、ついに出稼ぎを余儀なくさせられる。出稼ぎ先の社長は、13歳下の同じ村の出身者で、その農民は「あいつは早く村を出て、大学を出た。おれは文革時代に育ち中学校も行かなかった。こうなるのも仕方ない」と嘆息する。その社長は、「腐敗がなければ社会は回らない。役人の接待は必要だ」とインタビューにクールに応えていた。

これが中国社会の現実なのだが、その変革を目指す「零八憲章」を日本のマスメディアがあまり採り上げないのは、中国に対する遠慮があるとしか思えない。
文化大革命期、広州で「李一哲の大字報」が貼り出され、中国全土に大きな衝撃を与えた。暴君でもある「皇帝」毛沢東の実像を暴き、「階級闘争」の名目で互いに殺し合い、「挽肉器」にも例えられた中国社会の実相を鋭くえぐり出したのだ。


[双書9]李一哲の大字報(日中出版)

チイ・ハオほか編/山田侑平・小林幹夫訳
■定価 1575円(税込) ■*ISBN4-8175-1033-1 ■1977年9月刊
1974年11月、広州市に新聞用紙67枚を連ねた長大な大字報が出現、大反響となった。これが李一哲の大字報「社会主義の民主と法制について」だった。四六判上製/240頁


今回の「零八憲章」は、その李一哲の大字報に匹敵するものと言えよう。情報伝達の手段としては、「李一哲」は壁新聞、「零八憲章」はインターネットと雲泥の差があるのだが、その主張する内容は、基本的に同一である。
この30年間、中国は経済的には豊かになったものの、中国共産党一党独裁による抑圧政治は何一つ変わっていないということだ。

「朝日新聞」などの親中派マスコミはこの憲章を無視したが、文革期の「秋岡記者事件」と同じように、後年、これが朝日の不見識、不誠実さを示す格好のエピソードとなることを願わずにはいられない。

 

宣言内容

《零八宪章》分“前言”、“我们的基本理念”、“我们的基本主张”和“结语”等四部分,主要内容是阐述自由、人权、民主、宪政等概念,主张修改宪法、实行分权制衡,实现立法民主,司法独立,主张结社集会言论宗教自由,宣言共提出6点理念与与19点的主张。[4]

基本理念

  • 自由:言论、出版、信仰、集会、结社、迁徙、罢工游行示威等权利
  • 人权:人是国家的主体,国家服务于人民,政府为人民而存在。
  • 平等:公民不论社会地位、职业、性别、经济状况、种族、肤色、宗教或政治信仰,其人格尊严、自由都是平等的。
  • 共和:要求“大家共治,和平共生”,分权制衡与利益平衡。
  • 民主:主权在民和民选政府。
  • 宪政:主张以法治限制政府权力和行为的边界。

基本主张

19点主张包括了修改宪法、分权制衡、立法民主、司法独立、公器公用、人权保障、公职选举、城乡平等、结社自由、集会自由、言论自由、宗教自由、公民教育、财产保护、财税改革、社会保障、环境保护、联邦共和、转型正义等。触及了政治改革、经济改革、城乡差距与环境保护各面向。

各界反应

在消息传出后,签署声明的北京学者刘晓波、张祖桦于8日晚间遭到拘捕,刘晓波被刑事拘留,张祖桦随后则获释。至10日下午,参与签署者的上海维权律师郑恩宠也遭三名公安从家中带走,目前情况仍不明[5]

不过在海外,该声明则得到了余英时哈金陈一咨方励之胡平宋永毅苏晓康万润南王丹等多位著名人士的支持[5]


ある早大教授の”真実”~「日華事変と山西省」を読んで

2008年12月08日 09時22分39秒 | 中国

「日華事変と山西省」というウェブサイトに興味深い記事を見つけた。
このHPの筆者は、中国・山西省と関わりのある人らしく、日中戦争期のかくされたエピソードを採り上げている。
その中で興味をひいたのが、次の記事である。全文に近くなってしまうが、引用をさせていただく。


孫東元さんの人物像―安藤彦太郎『虹の墓標』批判

かつて文革を評価した親中派の論客として著名な早稲田大学名誉教授の安藤彦太郎。安藤が1995年に勁草書房から出版した『虹の墓標―私の日中関係史』は、安藤の記憶に残る20人の中国人との交遊の思い出が書きつづられている。郭沫若、周恩来、廖承志などそうそうたる人物とともに、戦争体験談で紹介している孫東元さんも登場している。表紙をめくると、当時孫さんと一緒に撮影したとする写真が載っているが、そこに写っている顔は確かに若かりし頃の孫さんといって良い顔だ。しかし、一章(60~67頁)をさいて安藤が紹介している孫さんとの思い出話は、このホームページで紹介している事実と大きく異なっている。

安藤は孫さんを、1937年(昭和12年)の廬溝橋事件を機に帰国していった愛国学生の一人として描いている。安藤は「孫君はひたすら事変の不拡大をねがい、医学を身につけるまでは、と頑張っていた。だが、ついに七月末に孫君も引き揚げることになった」(64頁)とし、留学生活を三週間で切り上げ、博多から船に乗って天津経由で帰国したという。しかし孫さんは官費支給がうち切られた後も日本に残り、1940年(昭和15年)まで九州医専で私費の留学生活を続けている。廬溝橋事件の時に帰国した事実はない。

安藤にとって孫さんは愛すべき祖国のために生きようとする立派な愛国学生として記憶されており、その思いは次のようなエピソードに込められている。
孫君は熱烈な愛国者で、こう言った。「僕は日本に来て良い日本人をたくさん識った。君はその一人で、僕の心の友と言っていい。でも君は、日本の兵士として召集されて中国に来るかもしれない。僕は帰国して抗戦に参加する。そして戦場で君に逢ったら断固として君を刺し殺す」。そのとき、マルクス・ボーイであった私は「いや、そういう考えかたは小児病的ではないかな」と、利いたふうな答えをした。するとかれは眉を揚げて、「でも僕は君を刺し殺す以外にないのだ」と言い切った。(64-65頁)
そして7月30日頃に東京駅で安藤は孫さんを見送り、乗船の直前によこした手紙を最後に消息が絶えたとする。安藤は「気性は激しいが快活で、ときおり皮肉な笑いを浮かべるおもしろい青年だったが、抗戦のなかで死んだにちがいない」(67頁)とし、あくまでも抗日に命をささげた愛国学生と記憶しているようだ。しかし孫さんは抗日どころか、一時帰郷中は傀儡政権が設立した医学専門学校で教壇に立っていた。たとえ"心の友"であっても、日本人=敵である以上"刺し殺す"と涙を浮かべて主張するほどの愛国心に固まった青年像。安藤が著書で描くその姿と、傀儡政権に職を得た事実から受ける印象には大きな隔たりがある。

安藤は著書の中で、当時の日本では反中・嫌中の嵐が吹き荒れ、孫さんをはじめ中国人が肩身の狭い思いや身の危険を感じていたという印象を与える書き方をしている。しかし、違和感がある。孫さんは、保証人を引き受けた布施先生をはじめ学友たちも皆が戦争前と全く変わらず接してくれたとし、むしろ戦火の広がる祖国を心配してくれた彼らへの感謝を今でも忘れないと語っている。安藤の日本人と中国人との関係についての見方は、もうひとつのエピソードでも違和感を与える。安藤は孫さんが"帰国"したあとに父親の達生さんから手紙が届いたとしてその内容を紹介しているが、それは父が日本留学時の自分の経験からして「日本人は中国人を軽蔑し、戦時はとくにひどいと思われるから、途中できるだけ日本人を装って帰るように」と指示したとする(67頁)。もちろん、彼はその手紙を自分が受け取って孫さんには渡していないと書いているから、たとえ孫さんが父親からそのような指示を受けた記憶がないと言っても不自然ではない。しかし孫さんは反対に戦火が迫りつつある太原に居る家族に対して当時なんら心配はしなかったという。日本の大学を卒業した知日家の父なら、日本軍が来ても全く心配ないと思っていたからだ。日本人を警戒して息子を帰国させようとする父親が、日本軍が攻めてくる太原に家族と一緒にそのまま居続けるだろうか。

安藤の書く孫さんとの思い出は、孫さんが自ら筆者に話してくれたものと比較して事実関係で大きな開きがあり、性格描写は正しい印象を与えるものの、人物像という点では正反対に近い。安藤が話を脚色しているのか、"愛国者"の振りをして孫さんが彼を騙したのか。すでに70年も前の話で、しかも当事者の一方である孫さんが既に他界している今、それを第三者が判断することは難しい。しかし少なくとも安藤が古き良き思い出として書いたこのエッセイは、次の事実によって痛烈な歴史の皮肉として彼自身に跳ね返ってくる。

安藤が評したように"気性は激しい"孫さんは、中共治下の集団狂気にも怯むことなく自己主張を続け、反動のレッテルを貼られて三角帽をかぶらされることとなった。安藤が中国共産党の治世と文化大革命を賞賛していたとき、孫さんは1950年代の反右派闘争から1970年代の文革終結までの20年もの間、政治的迫害を受けていた。現地の人は皆一様に、孫さんは「投獄されていた」という。判決を受け、罪人として獄につながれた。良く言われる労働矯正よりも深刻だったのだ。安藤はエッセイの中で「太原には一九六四年、北京シンポジウムの旅行で一晩立ち寄ったとき以外、行っていないが、いちど達生医院のことを訊ねたいと思う」(67頁)と呑気に書いているが、1964年に彼が太原を訪れたとき、父親の達生さんは毛沢東の失政で中国全土を空前の飢餓が襲っていた二年前に他界しており、孫さん自身は長治市の郊外に設けられた強制収容所にいたようだ。

戦後に孫さんが受けた迫害については詳しく聞き取りをしていない。精神的に限界までいったトラウマに触れることを恐れたからだ。孫さんの自宅には、部屋中に周恩来の写真(毛沢東ではない)が貼られ、一種異様な雰囲気を醸し出していたのを憶えている。足腰が弱くなり、移動には車椅子を使っていたが、迫害を生き抜いた老人は、同行していた省政府の歴史研究員を前にして「閻錫山の治世は素晴らしかった」「中共はスローガンばかりだった」と大きな声で堂々と話した。これぐらいの内容でも彼らのような戦前世代が口にするには相当の覚悟が今でもいるのだ。布施先生のご子息をはじめ、数年前に連絡がとれるようになった日本の同窓生からは学術誌が定期的に届いていたが、80歳を過ぎたその時も医学論文に目を通すことを楽しみにしていた。私が取材した数ヶ月後に他界した。現地の人たちは皆一様に彼の気質を「すごい」と評する。何度も復活を遂げた小平になぞらえて「不倒爺」とも呼ばれた。親日と反骨に生きた83年の人生だった。

            (「日華事変と山西省」より引用)

疑問符を付けられた著作は、安藤彦太郎著「虹の墓標ー私の日中関係史」(頸草書房 1995年)である。
著者である安藤氏は、元・早大政経学部教授(中国語・中国経済論)で、中国の文化大革命を賛美した「進歩的文化人」でもある。文革期に「北京留学」という「恩恵」を中国から授かり、文革がいかに素晴らしいかというレポート(「中国通信」)を書き続けた。それは、当時の学生等に大きな影響を与えた。同僚で「文革礼賛派」でもあった故・新島淳良が、文革終結後、早大教授を辞して、「ヤマギシ会」に入ったのとは対照的に、安藤は早大教授のポストに座り続けた。

この人の変わり身の早さはすごかった。文革が収束すると、「文革礼賛」をすぐに引っ込め、新しい中国指導部のお追従を始めた。「学者」として文革を総括することもなく、その後は「中国語と近代日本」(岩波新書)というような、中国の威光を借りて日本を批判する本ばかりを出版した。

そういう安藤氏は知っていたが、上記の引用文献を見て、「そこまで不誠実な人だったのか」と改めて驚いた。
そういえば、安藤氏が育てた学者、研究者は皆無に等しい。自身の学問的業績も「満鉄ー日本帝国主義と中国」(お茶の水書房)くらいしかなく、早大以外の場所では評価もされていない。おそらく、早大内部の「日中友好運動」家として幅を利かせ、教授にまで登り詰めた人なのだろう。それはそれで文句を付けることではないが、自己の都合のため真実をねじ曲げる態度は、到底許されないことだ。
孫東元氏と安藤氏がどちらが真実を語っているのか、それは言うまでもないことだろう。安藤氏もいよいよ毛沢東に会う年齢となっているのだから、不誠実な自己弁護は止めるべきなのだが、「日華事変と山西省」の著者の問い合わせには次のように答えたという。

追記:安藤彦太郎氏からの手紙

安藤氏に手紙で事実関係を質問したところ、著書での記述はフィクションではないとの返事を頂きました。安藤氏は孫さんの談話内容との乖離について、「対日協力者の複雑な心境ではないか」と評しています。そもそも"対日協力者"であるのは私からの手紙で初めて知ったはずで、しかもその談話の内容は、(中共治下では)自らに不利な内容で、かつ嘘をつく必要のないものです。

安藤氏からの手紙を読んで、孫さんが雑談のなかで話していたことを思い出しました。「ある日本の古い友人が、戦前の私のことを本に書いているが、事実が違っているので訂正を求める手紙を出した」というものです。その本が安藤氏の著作がどうかは、孫さんが亡くなった今では確認できません。

文革」が「魂に触れる革命」などではなく、「世紀の大厄災」であったことは、今や明らかだ。当時、日本でも「文革」を礼賛した「知識人」「大学教授」が何人も出た。その多くは、後に自らの不明を恥じるのだが、安藤に限っては、全くそういうそぶりも見せず、「中国当局」へのお追従を貫いた。早大退職後も、「日中学院院長」として中国との太いパイプを持ち続けた。

「文革」期に安藤の言説に欺かれた若者は、今や疲れ切った還暦世代に。
彼らが孫東元氏のエピソードを知れば、「安藤のようなやつが、うちの会社にもいるなあ~」と嘆息することだろう。その「安藤のようなやつ」は、きっとしっかり会社の中枢に収まっているのだ…。

 

「野村浩一氏インタビュー」を読んで

2008年10月28日 16時16分33秒 | 中国
インターネットを検索していたら、見覚えのある人物の名前にぶつかった。立教大学名誉教授の野村浩一氏。中国政治思想史の学者として有名な人だ。


《野村浩一著「蒋介石と毛沢東」》

野村氏へのインタビューは、昨年、東京大学で行われたもので、後輩に当たる村田雄二郎という東京大学教授が、インタビューしている。
今年でもう78歳になったのかと思ったが、インタビューの内容は、部外者にとっても興味深いものだった。

野村氏は、1930年生まれ、1950年に旧制・三高から東京大学法学部政治学科に入学している。大学では丸山真男に学んだ。成績優秀だったのだろう、研究生として大学に残っている。
当初、丸山真男に倣って「日本政治思想史」を専攻しようとしたが、丸山の勧めで中国政治思想史の分野に進んだという。かつて西洋政治思想史研究を志した丸山真男も恩師・南原繁の勧めで日本政治思想史を専門とすることになった。全く同じパターンのようだ。さすが天下の秀才は、どんな課題を与えられても直ちに対応できるということなのだろう。

政治思想史家としての野村氏は、かつて毛沢東を高く評価した。毛沢東ではなく「毛主席」という言葉を使って、「どこの国の学者なのか?」と冷やかされたほどだった。だが現在、毛沢東の評価については、部分的に誤りを認めていて、その誠実な人柄がうかがわれる。
毛沢東政治の政治構造については「…中国では人々は上から下まで様々なレベルがあるけれども、およそ当権者-実権者はそこでは全権を持っている。何でも出来ると思っているんではないかと。”権力は持っているうちに使わなければ、期限が過ぎるとダメになってしまう”(権力不用、過期作廃)という言い方があると聞いたことがあります。…そうした権力を生みだした歴史、政治風土、政治文化を考えていきたいと思うようになりました」とインタビューで応えている。

1972年当時でも、宇野重昭氏(現・島根県立大学学長、当時・成蹊大学教授)は、「野村先生は、毛沢東の一番キラキラした輝く部分だけを採り上げているきらいがある」と評していたのを覚えている。

社会の下層にたたずむ者としては、「権力不用、過期作廃」の意味が身に染みてわかる。日本社会でも似たようなことが沢山あるので、イヤでも気付かされてしまった訳だ。
その意味では、秀才中の秀才である野村氏は、やはり有象無象が権力をふりかざす実社会とは無縁の人のようだ。

何にしても、野村浩一氏がご健在で喜ばしい。実は、教わったこともないのだけれど、一度エレベーターの中で話したことがあったっけ…。



《私は、こちらの「蒋介石と毛沢東」の方がお気に入り!》







満鉄超特急「あじあ号」の今は…

2008年09月28日 21時29分46秒 | 中国
旧満鉄(南満州鉄道)が誇った超特急SL「あじあ号」が、中国・大連にたった1輌だけ保存されている。
戦前、瀋陽(奉天)-大連間400kmを4時間で走った、文字通りの超特急機関車だった。現在、同区間を走る中国の特急列車でもわずかに「あじあ号」の速度には及ばない。

その「あじあ号」は、大連駅近くの古めかしい倉庫に保管されていた。倉庫の窓ガラスがところどころ割れていて、中は薄暗い。これまで、どういう扱いを受けてきたのか、ただちに察知した。


(「あじあ号」の前部)


(「あじあ号」の頭部)



ご覧の通り、「あじあ号」の車体は相当痛んでいる。はしごで機関室に入ると、内部はさらに悲惨な状態だった。


(ボイラー室)



(機関室内部の計器)


この「あじあ号」は、「満州」の大平原を高速で走るために設計されたSLだった。そのため、車輪は際だって大きく、日本を走る蒸気機関車とは比較にならないほどの馬力を持っていた。客車は冷暖房完備で、最上級の食堂車もつけられていた。


(「あじあ号」の車輪)


この「あじあ号」を走らせていたのが「満鉄」だが、旧「満鉄本社」は、「大連満鉄旧跡陳列館」として保存されている。公開されたのは2004年で、「アジア号」や「203高地」とともに、中国側がこれらの「史跡」を観光資源として考え始めたことを示している。





(「大連満鉄旧跡陳列館」のパンフレット表紙)


この陳列館は、広大な満鉄本社の一部にあり、満鉄総裁の机と椅子、歴代総裁の写真、鉄道関係の工具類、什器類などが展示されている。写真の展示もかなりあるが、「日本軍国主義」を非難する内容に終始していた。この部分にカメラを向けようとすると、撮影禁止と言い渡された。
建物の外には、お定まりの「記念碑」が建てられていて、ここにも「日本軍国主義」の罪状が書かれていた。


(満鉄本社の一部)


(歴代満鉄総裁の写真)


(満鉄本社前の記念碑)


上掲のパンフレットには、日本語で次のように書かれている。
「”満鉄旧跡陳列館”の設立、その目的は、我々が歴史を鑑とし未来に臨み、共に平和・友好の新たなページを切り拓くことにある」

文字どおりに受け取れば、何ら異論はない。しかしながら、中国側の意図は別のところにあるという疑念もぬぐいきれない。「靖国問題」に対する中国側の反応を見れば分かるのだが、中国は「歴史認識」の問題を対日交渉のカードとして使用している。一旦事あれば、「歴史認識」カードを突きつけることで、日本側を萎縮させ、利益を得ようとするやり口だ。

「植民地支配」は、当然のごとく肯定は出来ない。だが、「満州国」において「満鉄」が果たした社会開発の実績を一顧だにせず、「日本軍国主義」として全否定するのはいかがなものか。現実に台湾では、日本の植民地統治が果たした役割を、冷静に分析しようとする傾向が顕著で、一方的に日本を非難する論調は少ない。

今のままでは、日本人観光客が中国の「旧跡」を訪れるたびに、父母、祖父母の「犯罪」を懺悔しなければならないという「しくみ」が作られている。これは本当に「友好」のためなのか、フェアなやり方なのか、もう一度考えるべきだと思った。










旅順「二〇三高地」を訪れて

2008年09月17日 03時34分09秒 | 中国

格安ツアーで「旅順・二〇三高地」「満鉄アジア号」が見られるツアーがあるというので、出かけてみた。


旅順の「二〇三高地」は、何の変哲もない丘だった。頂上が海抜203メートルであることから、その名が付けられたという。丘に登ると旅順口が一望できて、軍事上の要塞であったことが了解できる。


頂上には、「二〇三高地紹介」として、日本語で次のように記されている。


「二〇三高地は1904年日露戦争当時の主要戦場のひとつであった。日露両軍はこの高地を争奪するため、殺し合っていた。その結果、ロシア軍は5000人以上、日本軍は1万人以上死傷した。戦後、旧日本軍第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を記念するため、砲弾の破片から10.3mの高さの砲弾のような形の塔を鋳造し、自らが「爾霊山」という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した証拠と恥辱性となっている。」


従来の中国側の「日露戦争」認識は、日本とロシアという帝国主義間の戦争であり、旅順口をめぐる攻防では中国人民が犠牲になった、ということだったはず。
しかしながら、上記の説明文では、一方的に「日本軍国主義」を断罪する内容となっている。これも江沢民以来の「反日教育」の「成果」なのだろうか。


「二〇三高地」は、今や日本人とロシア人の観光客を見込んで、物見遊山の場所となろうとしている。そこに上記のような表示があるのだが、訪れた日本人のうち、どれだけの人がその不当性を認識するのだろうか。
私は「右翼」などではないのだが、「日露戦争」に関して、日本が一方的にその非を問われることなどありえないと考える。現にトルコでは、ロシアを破った乃木将軍は、日本人の英雄として教えられているという。


平和ボケで歴史感覚を喪失した日本人が中国に行くと、①一方的に日本の犯罪を懺悔する、②中国人の独善性に反発し居丈高になる、という二つのパターンしかないのではないか、と思えてくるのだが、どうだろうか。

「南京大虐殺」とも関連して、厄介だが、極めて重要な問題であると思われた。


満鉄「アジア号」を見に行く

2008年09月15日 00時27分36秒 | 中国

大連に保存されているという、旧・南満州鉄道(満鉄)超特急「アジア号」を見に出かけた。


「アジア号」は、戦前、日本の鉄道技術を結集した、SLの最高傑作だったが、日本の敗戦に伴い、中国政府に接収され、これまで公開されることはなかった。
ところが近年、中国が急速に経済発展するにつれて、中国政府もこれまでのかたくなな態度を改め、「アジア号」や満鉄本社の建物の公開に踏み切ったのだ。


「公開」されたとはいえ、保存状態は極めて劣悪。大連駅の近くにあるボロボロの倉庫の中に、埃まみれで遺されていた。巨大な4輪の車輪が、時速120kmを出したという昔日の雄姿を思い出させる。


現在、中国の特急列車は、大連→瀋陽間(400km)を4時間で走るが、これは「アジア号」よりも遅い。往年の「アジア号」は、全車に冷暖房を完備し、素敵な食堂車も付いていた。鉄道というのは、その国の技術水準を示すので、当時からいかに日本の技術が優れていたか分かるだろう。


だが、満鉄本社の建物に設置された資料館では、中国侵略の象徴として、満鉄を全否定する展示ばかりが見られた。

しかしながら、「満鉄」や「満州国」が果たした社会調査、保健医療、教育など数々の実績が、現在の中国東北部が繁栄する基礎となったことは忘れてはならない。

もはや何もかも、「日本が悪かった」と懺悔する時代ではない。
高層ビルが乱立し、未来都市を思わせる大連で、改めてそう思った。




 

 


胡錦濤が飲んだワイン

2008年05月07日 11時14分44秒 | 中国
ネット上では胡錦濤主席の訪日に関しては、かなり厳しい意見が飛び交っている。ここでは、誰も触れなかったトピックスを採り上げる。

昨晩、東京・日比谷の「松本楼」で開かれた夕食会で、福田首相は自らのお気に入りのワインを持ち込み、皆に振る舞ったという。「松本楼」の社長が、インタビューで答えていたので、間違いのない事実だ。

何故、このことに注目するのか。
中国の王朝興亡史の中では、「毒殺」はごく普通の出来事だった。忠実な家来が明日は裏切るかも知れず、皇帝はありうべき裏切りに備えて、あらゆる対策を施してきた。皇帝が相手方から供された食物、飲料をそのまま食することなど、金輪際ありえなかった。
これは、遠い昔の話ではない。例えば、「文化大革命」末期に林彪副主席が企てたとされるクーデター計画には、毛沢東の動向を記述する中で、「毒殺」についても触れられている。
胡錦濤自身の「先輩」達が、中国共産党の権力闘争の中で「毒殺」の恐怖に怯えていたわけだ。

その胡錦濤が、福田首相が持参したワインを「はい、どうも」と言って、本当に飲んだのかどうか知りたいところだ。
この件をめぐって福田さんという人の評価は、まっぷたつに分かれる。
① 純粋におもてなしのつもりで、自宅からワインを持っていった。
② 中国についてなにがしかの知見があり、胡錦濤の度量を試してみるという深慮遠謀があった。
 
この二つなのだが、どうだろうか。

中国人については、次のようなエピソードがある。戦前のことだが、北京に留学していた日本人の実体験である。知り合った中国人学生とは、故郷の家族の写真を見せたりするほど仲良くなった。ある日、北京で働く軍隊関係者の話を何気なく話したところ、その友人は顔色を変えて出ていったという。その理由は、「そんな話をしたことを貴方自身が後悔したら、私はあとで大変な目に遭うかも知れない。だから、あえてそんな話は聞きません」ということだった。

「李下に冠を正さず」とはちょっと違うのだが、中国人の人間関係を見る目の冷徹さを見る思いがするピソードだ。これを敷衍して考えると、福田さんは持参のワインなど振る舞うべきではなかったのだ。中国人は、何故、こんな場でワインを持ってくるのかをまず考えるだろう。「友達だから持ってきた」というのは、お人好しの日本人の典型で、首脳同士がすることではないだろう。

夕食会に先立って胡錦濤が「井戸を掘った」友好人士達と”接見”するのを見たが、これも中国独特のやり方で、田中真紀子がしゃしゃり出るのではイヤだなと思う人も多いだろう。
福田さんについては、どうやら首相退陣後も「友好人士」のお仲間に入りたいとしか思っていないのではないか。靖国神社参拝について「友人がイヤだなと思うことを、やる人はいないでしょ!」と放言したほどの「親中派」なのだから、上記②のような心構えが出来ている人とは、とても思えないのだ。


パンダをお借りして「日中友好万歳」。環境問題にも多額の援助を与え、東シナ海の油田も献上して、日本はいよいよ中国の属国となりつつある。







胡錦濤の履歴書

2008年05月06日 09時08分21秒 | 中国

きょう来日する胡錦濤主席の履歴を外務省のHPで見た。


. 氏名

 胡 錦濤
 (Hu Jintao)

2. 生年月日

 1942年12月生

3. 出生地

 上海市(原籍は安徽省績渓県出身)

4. 現職

 国家主席、国家中央軍事委員会主席、
 党総書記、党中央軍事委員会主席、
 党中央政治局常務委員(序列第1位)

5. 略歴

<CAPTION class=bold>略歴</CAPTION>
期間 略歴
1964年4月 中国共産党入党
1965年7月 清華大学水利エンジニア学部河川中枢発電所コース卒業
(在学中、政治補導員)
清華大学水利エンジニア学部で研究に従事。
1968年 水利電力部劉家峡工事局住宅建設隊で労働
1969年 水利電力部第4工事局813分局技術員、秘書、機関党総支部副書記
1974年 甘粛省建設委員会秘書
1975年 甘粛省建設委員会設計管理処副処長
1980年 甘粛省建設委員会副主任(兼)中国共産主義青年団甘粛省委書記
1982年9月 第12期党中央政治局候補委員
1982年10月 甘粛省共青団書記
1982年12月 共青団中央書記処書記
1983年8月 中華全国青年連合会主席
1984年11月 共青団中央書記処第一書記
1985年7月 貴州省党委員会書記
1985年9月 第12期党中央政治局委員
1987年11月 第13期党中央政治局委員
1988年8月 貴州省党委員会書記
1988年12月 チベット自治区党委書記
1990年7月 チベット自治区党委書記
1992年10月 第14期党中央政治局常務委員、党中央書記処書記
1993年10月 中央党校校長
1997年9月 第15期党中央政治局常務委員
1998年3月 国家副主席
1999年9月 党中央軍事委員会副主席
1999年10月 国家中央軍事委員会副主席
2002年11月 党総書記、第16期党中央政治局常務委員
2003年3月 国家主席、国家中央軍事委副主席
2004年9月 党中央軍事委員会主席
2005年3月 国家中央軍事委員会主席

 

1964年に清華大学水利エンジニア学部を卒業し、母校で研究を続けるうちに、文化大革命に遭遇する。清華大学は「文革」の拠点でもあったから、胡本人も自らの政治的立場を明らかにするよう迫られたはずだ。
1968年に「水利電力部劉家峡工事局住宅建設隊で労働」というのは、明らかに知識人の「下放政策」によるものだ。胡がラッキーだったのは、彼の専攻が極めて実務的な理科系であったということ。いくら「狂気の時代」だったとはいえ、ダムの設計にまで素人がケチをつけることはできなかったはずだ。

「文革」の時代を上手にくぐり抜け、技術官僚として甘粛省で出世を続ける。1980年に中国共産主義青年団甘粛省書記に登用され、中央の目に留まる。それからはトントン拍子で、党政治局委員、チベット自治区書記を経て、1992年には党中央に登用される。

この経歴は、ゴルバチョフとよく似ている。すなわち、「革命体験」は持たない世代であるのだが、高学歴(専門知識)を持ち、共産党上層部に気に入られて、特別に目をかけられ、抜擢された人だ。
ゴルバチョフは、クレムリンの内部を知り尽くしたあげく、自ら恩恵を受けた体制そのものを変革しようとした。
一方、胡錦濤は、チベット自治区書記時代に、治安対策で辣腕をふるったことが評価された。先日の「ラサ暴動」を見て、「俺ならもっとうまく収めていた」と思っているのかも知れない。彼の愛想笑いの影には、こういう強面の側面があることを忘れてはならないだろう。

共産主義イデオロギーが死語となった現在、胡が依拠するのは「中華愛国主義」とも呼べるイデオロギーである。そのエッセンスは「中華民族は優れていて」「周囲の国などとるに足らない」という、愛国主義、排外主義だ。


胡錦濤に比べれば、福田康夫首相の経歴などお粗末な限りだ。あれだけ優秀な父親を持ち、麻布だか開成だかに進み、最良の条件で受験したにもかかわらず、早稲田大学しか合格できなかった。東大に入って当たり前のはずなのに…。勤めた会社は、今やなくなってしまった石油会社で、課長止まり。周囲のバックアップ(恩情、コネ等々)にもかかわらず、この程度のひとなのだ。こんな首相がしたたかな胡錦濤に渡り合えるとはとても思えない。
高価なパンダを貸してもらって、「日本外交」の勝利とか勝手に自己満足するんじゃないのかな、福田サンは。

 

 


北京ー1976年4月2日

2008年05月02日 19時02分03秒 | 中国
「紫禁城写真展」には及ばないが、古い写真を見つけた。
撮影は1976年4月2日、北京の長安街をデモ隊が行進する写真だ。
写真の右奥に見える建物は、北京飯店。デモ隊は、北京飯店の方向から天安門広場へ進んでいることになる。

デモ隊が掲げているプラカードは、「周恩来総理を追悼する」というもの。
この3日後の4月5日、「天安門事件」(第1次)が同じ場所で起きたのだった。


ツアーで北京にいた私は、偶然にもこの写真を撮ったのだが、3日後の惨劇を予感させるものは何もなかった。

現在の北京から見れば、信じられないくらいの光景だ。これがわずか30余年前の中国だったのだ…。

変わらないのは、中国共産党の一党独裁がもたらす、抑圧と腐敗だけだ。

中国政府を代弁する朱建栄教授

2008年04月27日 10時38分07秒 | 中国
今朝、ふたつの番組に朱建栄東洋学園大学教授(中国政治史)が出演し、チベット問題について、中国政府の立場を代弁していた。


朱建栄氏の経歴は次のとおり。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%BB%BA%E6%A0%84


私自身は彼の「毛沢東の朝鮮戦争」をずっと前読んだ記憶があるが、その著者が中国政府の代弁者のようにTVに出演するのは意外な感じがした。
ただし、上記の著書については、発売当初から中国の未公開文献を使っているので、中国当局のバックアップがなければ書けないと指摘されていた。


だが何故、ふたつの報道番組をかけもちさせてまで、彼を出演させる意味があるのだろうか。他にも中国問題専門家は、大勢いるはずだ。
やはり、この教授に中国当局の影を感じるのは、私だけなのだろうか。




チベット暴動

2008年03月16日 00時15分56秒 | 中国

チベット暴動は、予想以上に大規模で深刻のようだ。

中国チベット自治区ラサの旅行社女性職員は15日午前、毎日新聞の電話取材に「街にほとんど人がいない」と語った。中国当局は戒厳令を敷いていないとしているが、市内要所に治安部隊が展開しており、ラサは事実上の戒厳令状態にあるとみられる。

 職員は「少し前から暴動のうわさが流れていた。14日午後は学校や病院が何カ所も放火されたが、短時間で消火された。当局の対応は速く、夜にはテレビやラジオで鎮圧のニュースが流れた」と話した。一方で、暴動はラサ郊外にも拡大している模様で、外国人旅行者の受け入れは停止されている。

 新華社通信によると、ラサ中心部では14日午後1時10分ごろ、僧侶ら抗議活動の参加者と地元警察の衝突が激化した。午後2時ごろから、僧侶が主要道路の2路線に面した商店に放火。寺院周辺の少なくとも5カ所で火災が発生し、多くの商店や銀行、ホテルが焼け落ちた。火災で停電や通信が遮断された。

 米政府系「ラジオ自由アジア」が目撃者の話として伝えたところでは、観光地として知られ、旧市街地区にあるチベット仏教寺院ラモチェ寺の中で2人、庭で2人が死亡しているのが見つかった。別の場所でも2遺体が発見された。また、26人のチベット人が黒い車両で連行された後に銃撃されたという。

 ラモチェ寺の約110人の僧が、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の写真を掲げ「チベット独立」を叫んで行進し、制止しようとした地元警察と衝突した。暴徒化した一部のチベット人は漢族系商店を襲撃。商品を略奪し、路上で燃やすなどの行為に出ているという。

 目撃者は「中国人が経営する店は次々に放火される。チベット人の店は、中国(漢族)系と見分けるために目印としてスカーフを店先に付けるよう言われている」と述べ、混乱ぶりを伝えた。


西蔵鉄道が開通して、ますます漢族が流入するにつれて、チベットの中国化が顕著になっていた。そんななかで、チベット人の反感がつのり、このような暴動を引き起こしたのではないか。中国の公安警察は、密告、洗脳、私刑(法に基づかない処刑)などお手のもの。平和ボケした日本のマスコミや”進歩的”な「市民」の方々がとやかく論評できるようなヤワな相手ではない。
チベット独立運動が激化すれば、中国当局は手痛い打撃をうけることになる。台湾問題や新彊ウィグル自治区の分離運動にも波及しかねないのだ。
中国共産党独裁政権が現状をどう分析し、対処するのか、注目の時だ。