年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

フェ-トン号事件から始まる福神漬の歴史

2019年03月16日 | 福神漬

1808年〔文化5年〕 フェ-トン号事件から始まる福神漬の歴史。

 

 福神漬の歴史で日本人に説明する時どこから始まりとしたら納得できる説明できるかと考えると、1808年、長崎に侵入したイギリス船フェートン号事件とから考えた方が説明しやすい。

 福神漬は明治10年代の終わり頃缶詰に漬物を入れたことから、様々な言い伝えが始まる。

 江戸時代後期の文化文政時代(1804年-1830年)は学校の日本史で

化政文化(かせい ぶんか)と言われ江戸を中心として発展した町人文化を指す。  浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学や蘭学の大成した時期でもある。上方(京・大阪)から文化や経済が江戸に移った時代でもあった。

 フェートン号事件の少し前の長崎の事情を知っていないと福神漬の命名由来等に出てくる人物を理解することは出来ないだろう。そもそも明治事物起源を著した石井研堂の(缶詰の始まり)に場違いな島原の乱の記載がある。キリスト教布教を阻止するため、鎖国(海禁)長崎に外交の窓口を絞った。多くの漂流民の処置も長崎で行われていた。

 長崎奉行の本を読んでいると通史的になってしまうのでフェ-トン号進入直前から書きたいと思う。

 新井白石の調査で長崎貿易の不均衡からいずれ日本の金銀が枯渇する危険を指摘された幕府は長崎貿易を縮小均衡へ向かった。オランダ・中国の交易船を減らすこととなった。(正徳新令)輸入品から国産品の振興を図られ、日本各地で米以外の生産振興が図られるきっかけとなった。長崎の貿易不均衡の最大の原因は砂糖の輸入増加と日本の金銀産出量の減少であった。また江戸幕府の外交を一手に引き受けていた。天明期に天災によって幕府経済が混乱している時期に長崎奉行として戸田出雲守氏孟は長崎町民等に厳しい政策をとったようだ。ここ10年で出版された長崎奉行関連の著書にこの当時の経済事情が記述されている。また松平定信の著書宇下人言(うげのひとこと)に『長崎の地事乱れて天明5年戸田某と言う者即死』とある。長崎で在任中死去した戸田氏孟の墓に小便をかけていたようでお触れが出ていた。この戸田氏孟の子孫が福神漬の歴史に関わっていたとは長崎奉行の研究者は想像もしないだろう。また長崎通詞関係の子孫も同様に福神漬に関わってくることとなる。

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