福神漬の歴史を調べている途中に意味不明な文献に出会ったとき、一応頭の中に置いといてこの意味不明なことを理解できる文献があるまで待っていた。
函館の戊辰戦争最後の戦いで、浦賀与力だった中島三郎助と千葉行徳の漬物商人が千代が岳の砦で戦死した。(出典・明治事物起源・石井研堂著・缶詰の始まり)新撰組の土方歳三が戦死した二日後で浦賀の中島隊が戦死し、戊辰戦争の集団的戦闘が終わった。中島がペリ-が浦賀に来たとき最初に黒船に乗り込んだ人物である。
ペリー来航時、浦賀奉行戸田伊豆守氏栄は幕府の判断がなかなかこないので部下であった下曽根金三郎に指示し、浦賀の寺院の掃除をしていたようだ。この話は野次馬となった吉田松陰が東浦賀の宿屋で町のウワサ話として記録がある。寺院を掃除するということは切腹する準備だという。幸い米国とは戦闘にならず開国となった。それにしても異国との交渉で遠国奉行が切腹する事例があるのだろうかと疑問に思っていた。ところがフェ-トン号事件を知ると長崎奉行が切腹していた事例があった。長崎で平和すぎ警備の兵力を減らしたため、不意に訪れたイギリス船フェ-トン号に対応できなかった。
浦賀の寺院掃除は戸田氏栄のパフォ-マンスと思われる。異国船が突然進入してきたので対処できなかったという言い訳を用意していたようだ。しかし実際はかなり準備をしていたようで中島はペリ-の船中で乗組員にパナマ運河の建設の進行状況を聞いていたという。
フェートン号事件で切腹した長崎奉行のことは戸田伊豆守氏栄は知っていたと思う。なぜなら戸田氏栄は幕府の歴史書(干城録)編集責任者の一人でさらにおじに当たる戸田出雲守氏孟が長崎奉行在任中に病死した。
明治維新後、新政府の歴史家は倒幕の歴史を正当化するため維新史では突然ペリ-が日本にやって来て無能な幕府だったということを強調した歴史を編纂した。最近の歴史研究では結構ペリ-の来航は知っていたようでただ幕府の鎖国を覆す判断が事前に出来なかったようだ。