JR日暮里駅の隣に谷中墓地がある。駅より高いので気が付かないが線路から100mも離れていないだろう。墓地に入るとすぐに玉乃世履の墓に気が付く。その付近が墓地住所というべき甲号の地域で明治の自由民権運動福島事件の田母野と花香恭次郎の墓が甲9号8のところにある。初めて二人の墓を訪問した時は荒れていて、墓が傾いていた。その後花香という苗字の人が私財を投じて立て直した。記念写真を撮ると、背景に大きな武家の墓が入るが、そこは広島の福山藩阿部家の阿部正恒夫妻の墓地だった。黒船に対応した阿部正弘(乙11号1 )も谷中に墓がある。甲9号の奥に関藤藤陰(石川和介)の墓が甲9号11側にあるはずと探すと。阪谷家の墓があった。関藤藤陰の墓碑文を起草したのが阪谷朗廬(素 )でこの墓が見つからない。次回に繰り越しとなってしまった。
ぺり―来航時の浦賀奉行の行動を見ていて、開国の主役は戸田伊豆守氏栄と思っていたが、長い間調べていると、浦賀奉行所の与力たちに影響があったのは嘉永5年に辞任し、京都町奉行に転任した浅野 長祚 (梅堂)だった。その浅野を浦賀奉行に抜擢し、阿部正弘に進言したのが石川和介だった。浅野は浦賀の武備の貧弱さを感じ、幕府上層部に上申するも、認められず黒船が来る直前に京都町奉行へ移動願を出していたようだ。浅野は不足する資金を東浦賀の塩仲間の再興ということで資金を確保したように思われる。まだ文献は見つからないが戊辰戦争最後の戦闘に行徳の漬物商人喜兵衛(石井研堂著明治事物起源・缶詰の始まり)は浦賀の与力と共に戦闘死の記録に残る理由だろう。千葉行徳にはこのような事実の言い伝えがないのは逆賊と思われていたからと思われる。市川船橋戦争で地元の人たちは旧幕臣軍の敗色が濃厚になると、官軍を支持する行動に出たので、翌年の函館での戦闘死は記憶から消し去ったのだろう。石井研堂はなぜこの記述を日本の缶詰の始まりに書いたのだろうか。日暮里の諏訪台にある浄光寺にある福神漬顕彰碑の裏面に行徳の福神漬業者の山田箕之助の名前がある。勝てば官軍、負ければ賊軍の世界で福神漬の記憶はなぜか武士の商法の臭いがする。缶詰に醤油味の漬物を入れ、上野の行楽地の土産品と始まったが、缶に入れたため高価となり、売れなかったので宣伝目的で谷中の七福神巡りから当初の野菜三種から七種類の野菜に変え、命名を福神漬とした。命名者は江戸時代の戯作者で、明治18年頃の出版ブ-ムで戯作が再刊され、池之端の香煎茶屋が出てくるので、命名依頼したと思われる。
東浦賀の塩仲間は中島三郎助の遺児たちを支援し、浦賀で造船所を作った。浦賀ドックの始まりの資本は塩から来ている。その塩も日清・日露の戦費を賄う塩専売制度で浦賀から塩の歴史が消えた。