小説家吉村昭の書斎を模した施設が東京に2か所ある。一つは荒川区中央図書館と三鷹市に今年出来た施設である。荒川区の日暮里で生まれた吉村は年表から戦時中に転居するまで日暮里に住んでいた。従って震災・戦災の話は良く聞かされていて、特に戦災には当事者の経験も加わる。
荒川区史によると、上野の寛永寺が創建され、家光の代から徳川の墓所としての地位が上がり、寛永寺の東側に寺領地が広がっていったようだ。それゆえ地元の人は寛永寺に対しての恩顧を感じていたようだ。当然の様に荒川区の人と寛永寺の人との交流があったと思われる。
家光時代から、寛永寺の格が上がり、西国に波乱があった時に、東国の地で天皇に縁のある人を擁立する思惑が出て来たようだ。初代の輪王寺宮は守澄親王(後水尾天皇皇子)でタクワン和尚の事件(紫衣事件)が思い出されます。そして最後の輪王寺宮は福神漬の命名伝説の中心人物です。紫衣事件についてはタクワン漬の歴史で記述する予定ですが東京都品川区にある品川歴史館の学芸員と私の見解は一致していてタクワン漬の創製者は沢庵ではないと思っています。
さて荒川区の区史で戦前の発行の区史は薩長史観(皇国史観)による記述から彰義隊の戦争の部分は今のような彰義隊よりの記述となっていない。遠慮気味の記述となっていて、戦後の区史では彰義隊敗退後の無念さを自由に語っている様子が見える。
日本人の歴史観は輪王寺宮(北白川宮能久親王)をどのように評価するかによって、皇国史観(薩長史観)に汚染度が計ることが出来るとおもう。皇国史観を否定している左翼史観もこと輪王寺宮の評価は薩長史観と同じように見える。
九段下駅に隣接する昭和館4階の図書室に能久親王御事蹟という表題の本が2種類ある。一つは台湾教育委員会の出版で、もう一つは陸軍の偕行会の有志の人達の評伝である。どちらもほぼ同一の記述であるが取り上げ方が異なる。そこに森鴎外の能久親王御事蹟が加わる。表面上は3種類あるように見えるが森鴎外は小説家と知られていたので本の編纂者の様に見える。実際は名義貸しと思われる。
能久親王の事蹟で一番問題になるのが上野戦争時の輪王寺宮の京都方に対する態度をどう記述するかの問題となる。陸軍有志はこの問題を覚王院義観の一人に責を負わせ、暴走し、彰義隊の戦争に導いたという記述となっている。今の幕末史では西軍には幕府を壊滅させる意図があって、静岡での妥協はあり得ないという意思で統一されていたことが知られている。
戦前は皇国史観によって荒川区の人達の彰義隊戦争を残念に思っていて、それが爆発したのが明治20年代の東京開府300年のイベントからである。皐月晴上野朝風という竹柴其水作の歌舞伎興行も大成功だった。序幕は上野寛永寺の寺の鐘の音から始まり、上野公園で開催されている博覧会の終了のベルの音で終わるという演出だった。鐘の音は平家物語を模している。諸行無常を表す。明治20年になればもう幕府に戻ることは無いという明治政府の自信ともいえる。
荒川区史によると、上野の寛永寺が創建され、家光の代から徳川の墓所としての地位が上がり、寛永寺の東側に寺領地が広がっていったようだ。それゆえ地元の人は寛永寺に対しての恩顧を感じていたようだ。当然の様に荒川区の人と寛永寺の人との交流があったと思われる。
家光時代から、寛永寺の格が上がり、西国に波乱があった時に、東国の地で天皇に縁のある人を擁立する思惑が出て来たようだ。初代の輪王寺宮は守澄親王(後水尾天皇皇子)でタクワン和尚の事件(紫衣事件)が思い出されます。そして最後の輪王寺宮は福神漬の命名伝説の中心人物です。紫衣事件についてはタクワン漬の歴史で記述する予定ですが東京都品川区にある品川歴史館の学芸員と私の見解は一致していてタクワン漬の創製者は沢庵ではないと思っています。
さて荒川区の区史で戦前の発行の区史は薩長史観(皇国史観)による記述から彰義隊の戦争の部分は今のような彰義隊よりの記述となっていない。遠慮気味の記述となっていて、戦後の区史では彰義隊敗退後の無念さを自由に語っている様子が見える。
日本人の歴史観は輪王寺宮(北白川宮能久親王)をどのように評価するかによって、皇国史観(薩長史観)に汚染度が計ることが出来るとおもう。皇国史観を否定している左翼史観もこと輪王寺宮の評価は薩長史観と同じように見える。
九段下駅に隣接する昭和館4階の図書室に能久親王御事蹟という表題の本が2種類ある。一つは台湾教育委員会の出版で、もう一つは陸軍の偕行会の有志の人達の評伝である。どちらもほぼ同一の記述であるが取り上げ方が異なる。そこに森鴎外の能久親王御事蹟が加わる。表面上は3種類あるように見えるが森鴎外は小説家と知られていたので本の編纂者の様に見える。実際は名義貸しと思われる。
能久親王の事蹟で一番問題になるのが上野戦争時の輪王寺宮の京都方に対する態度をどう記述するかの問題となる。陸軍有志はこの問題を覚王院義観の一人に責を負わせ、暴走し、彰義隊の戦争に導いたという記述となっている。今の幕末史では西軍には幕府を壊滅させる意図があって、静岡での妥協はあり得ないという意思で統一されていたことが知られている。
戦前は皇国史観によって荒川区の人達の彰義隊戦争を残念に思っていて、それが爆発したのが明治20年代の東京開府300年のイベントからである。皐月晴上野朝風という竹柴其水作の歌舞伎興行も大成功だった。序幕は上野寛永寺の寺の鐘の音から始まり、上野公園で開催されている博覧会の終了のベルの音で終わるという演出だった。鐘の音は平家物語を模している。諸行無常を表す。明治20年になればもう幕府に戻ることは無いという明治政府の自信ともいえる。