日清戦争後に大阪城内に陸軍第四師団司令部の入る建物が完成し、昭和の時に再建し、今ミライザ大阪城として残る。日清戦争の末期というべき時に大阪城内に陸軍第四師団があった。師団長が北白川宮能久親王だった。
アジア歴史資料センタ-の検索で福神漬という文字を入れると、
大倉組支配人 xxxより福神漬献納の件が出て来る。日時は明治28年10月。そして認可が下りた。
この記録が出て、随分長い間気になっていたが、吉村昭の彰義隊という小説で経緯が判明しつつある。そこには戊辰戦争時の西軍の有栖川宮と上野寛永寺輪王寺宮(北白川能久)との対立があった。
上野の彰義隊の名目の頭として輪王寺宮がなってしまった。本意ではないが有栖川宮との静岡での交渉がこの様な事態となり、さらに仙台での投降後に京に送られ謹慎の身となり、ドイツに留学中にドイツ女性との婚約・破棄騒動を引き起こし、明治皇室にとって厄介な人物だった。そのため陸軍の軍人として、有栖川宮と実兄の小松宮の監視の下で、大阪第四師団長の席に日清戦争で国内待機していた。
明治28年(1895)1月15日に有栖川宮(59歳)が死去すると、兄の小松宮から日清戦争末期に従軍するようになった。近衛師団長で参加したが清との講和条約がまとまりつつある時期だった。
明治28年(1895年4月17日)、下関で日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章の間で締結された.。
この後に三国干渉があって、清国の国内混乱を予想し、日本の大本営が朝鮮で近衛師団を二つに分け、一つは台湾征討戦に向かった。その掃討戦に北白川宮が希望し、従軍した。
のちの歴史から台湾征討戦こそ、旧日本陸軍の第二次大戦に至る経過の始まりという。三国干渉で日本国は臥薪嘗胆という気分が残り、台湾征討戦で米国の黙認ということで植民地を得ることが出来た。
絹を輸出し、外貨を稼ぐ日本は砂糖輸入が多く、外貨を浪費するという経済だった。富国強兵を妨げる砂糖消費を植民地となった台湾が担うこととなった。
昭和の初めには日本は砂糖を自給することが出来たという。これは中国から茶の伝来から砂糖消費が増えた歴史の終わりでもある。
皇居北の丸の近衛師団の建物前に北白川宮能久親王の銅像があって、上野公園の動物園正門前に北白川宮の実兄の小松宮の騎馬像がある。本来なら北白川宮が上野公園に銅像があって良いはずとの想いが台東区教育委員会の説明版ににじんでいる。多くの下町の人達がなぜ縁もゆかりもない小松宮が上野の地に立っているのかと。
あの西郷隆盛も東京では軍服姿でなく、犬を連れている。昔のバスガイドが靖国神社の大村益次郎が双眼鏡をもって上野の山を見ていたと言って、では西郷隆盛は何処を向いているのでしょうかと質問していた。
答え 夏むき
今年も暑い。
アジア歴史資料センタ-の検索で福神漬という文字を入れると、
大倉組支配人 xxxより福神漬献納の件が出て来る。日時は明治28年10月。そして認可が下りた。
この記録が出て、随分長い間気になっていたが、吉村昭の彰義隊という小説で経緯が判明しつつある。そこには戊辰戦争時の西軍の有栖川宮と上野寛永寺輪王寺宮(北白川能久)との対立があった。
上野の彰義隊の名目の頭として輪王寺宮がなってしまった。本意ではないが有栖川宮との静岡での交渉がこの様な事態となり、さらに仙台での投降後に京に送られ謹慎の身となり、ドイツに留学中にドイツ女性との婚約・破棄騒動を引き起こし、明治皇室にとって厄介な人物だった。そのため陸軍の軍人として、有栖川宮と実兄の小松宮の監視の下で、大阪第四師団長の席に日清戦争で国内待機していた。
明治28年(1895)1月15日に有栖川宮(59歳)が死去すると、兄の小松宮から日清戦争末期に従軍するようになった。近衛師団長で参加したが清との講和条約がまとまりつつある時期だった。
明治28年(1895年4月17日)、下関で日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章の間で締結された.。
この後に三国干渉があって、清国の国内混乱を予想し、日本の大本営が朝鮮で近衛師団を二つに分け、一つは台湾征討戦に向かった。その掃討戦に北白川宮が希望し、従軍した。
のちの歴史から台湾征討戦こそ、旧日本陸軍の第二次大戦に至る経過の始まりという。三国干渉で日本国は臥薪嘗胆という気分が残り、台湾征討戦で米国の黙認ということで植民地を得ることが出来た。
絹を輸出し、外貨を稼ぐ日本は砂糖輸入が多く、外貨を浪費するという経済だった。富国強兵を妨げる砂糖消費を植民地となった台湾が担うこととなった。
昭和の初めには日本は砂糖を自給することが出来たという。これは中国から茶の伝来から砂糖消費が増えた歴史の終わりでもある。
皇居北の丸の近衛師団の建物前に北白川宮能久親王の銅像があって、上野公園の動物園正門前に北白川宮の実兄の小松宮の騎馬像がある。本来なら北白川宮が上野公園に銅像があって良いはずとの想いが台東区教育委員会の説明版ににじんでいる。多くの下町の人達がなぜ縁もゆかりもない小松宮が上野の地に立っているのかと。
あの西郷隆盛も東京では軍服姿でなく、犬を連れている。昔のバスガイドが靖国神社の大村益次郎が双眼鏡をもって上野の山を見ていたと言って、では西郷隆盛は何処を向いているのでしょうかと質問していた。
答え 夏むき
今年も暑い。