MR.コールマンの挑戦日記

セカンドライフを迎えて趣味のランニングや街歩き、スケッチ水彩画、地域活動などの日常のあれこれを綴っています。

日本橋川・橋巡り(2)

2019年05月31日 | まち歩き
橋巡りの後半は、日本橋から上流の九段下へ向かいます。

日本橋の次は、河岸のあった日本橋の西にあるから名付けられた「西河岸橋(にしかしはし」は、船の荷降ろし場(河岸)だったことから名付けられたようです。


外濠通りの「一石橋」では、頭上を覆う高速道は工事中のため押し潰されそうな光景となっています。
「一石橋」は、古くは江戸初期には木橋だった約百年前に現在の橋に架け変えられ、橋詰の両側にあった幕府御用の後藤家屋敷があったので、「後藤(五斗)+後藤(五斗)」を足して「一石(いっこく)」と名付けられた由緒ある古い橋でその親柱も風格を感じます。




親柱の脇には、「迷子しらせ石標」が立ち、人々が行き交う場所だったようで迷子のお知らせスポットだったのでしょうか?


その脇には巨大なゴジラを描いたスクリーンが立ち、怪しい通り魔などを見張っているようでした


「常盤橋」は、江戸通りの外濠にあった元常磐橋門に通じる石造りのメガネ橋となっています。




その先の歩行者専用の「常磐橋」は、常盤と一文字変えて名付けられており、今も改修工事が行われており近づけませんでした。


常盤橋門跡の公園には、第一国立銀郷を設立された渋沢栄一像が立ち、現在の日本銀行を眺めているようです。


その先の「新常盤橋」は、上部には高速道ではなく山手線が走っていました。


新常盤橋を渡ると、現在は無くなった龍閑橋の架道橋の柱が見られます


新しく3年前に出来た歩行者専用の「龍閑さくら橋」です。


さくら橋から眺めた山手線が走るアーチ橋です


さくら橋の南側の大手町は、現在は高層ビル街ですが、我が故郷越前福井の松平茂昭藩の御屋敷跡でした。
さくら橋から先の日本橋川沿いは「大手町川端緑道」となっており、改易な散歩道で江戸城外堀の石垣や神田橋門の石垣跡が残されています。


その先は「鎌倉橋」で、古くは鎌倉から贈られてきた鎌倉石の荷揚げが行われた鎌倉河岸後だったところでした。




「神田橋」では、親柱は石灯籠の形で欄干は緑に統一されたデザインとなっていますが、上部を覆う高速道はこの辺りも工事中で大きなベールが被さって寂しい光景でした。
江戸時代には、将軍が神田橋門から上野の寛永寺へ向かう御成道として使われた橋で、外濠の石垣も川沿いに残されていました。








神田橋の上流側の神田橋公園辺りは、過って荷揚げ場として活気があったところで「物揚げ場跡」の石碑が立てられています


また、「金銅鎚起・豊展観守像」と名付けられた不思議なオブジェが設置されていますが、案内板によると、人々の豊かさと発展する町を観守する姿と黄金虫と人間の擬人化により表現したアートでした


「錦橋」は、白のアーチ橋桁と緑の欄干のコントラストな橋で神田錦町に繋がる名橋ですね~


「一ツ橋」は皇居内堀の平川門に通じるに近い橋で石積みのアーチと緑の鉄橋の優れたデザインですね


「雉橋」は過って雉が多く棲んでいたことから名付けられたようですが、何故か錦橋付近には鳩たちが餌を求めて飛んできましたよ(笑)




雉橋から九段下前の清水門で折り返して一ツ橋の学士会館から神田神保町界隈をぶらついていました。
学士会館の一角には、日本に初めて野球を伝えられたウイルソン氏の殿堂入りを記念した「野球発祥の地」の記念のモニュメントが設置されています。



久し振りに隅田川から皇居周辺を流れる日本橋川沿いをぶらついていましたが、日本橋川は、江戸城の防衛施設として、外濠の役割を担っていたようで、改めて江戸東京の歴史・文化を堪能したロングウオーキングでした
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