「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「星野哲郎さん」

2010年11月16日 | つれづれ噺

星野哲郎作詞・船村徹作曲と言うだけでヒットチャートに乗る、と言われるほどの大作詞家「星野哲郎」さんが亡くなった。

ここからクルマで1時間も走れば、星野哲郎さんの故郷、周防大島町に行ける。隣村みたいなものだ。

そこで生まれ育ち、都会での大学・遠洋漁業の乗組員などを経て、故郷に帰り4年間の闘病生活。その時、いつもきれいな瀬戸の海を眺めながら作詞の勉強に励んだそうだ。 やがて、広島県大竹市出身の、これまた大作詞家石本美由起さんにその才能を見出され世に出ることになる。

大島町の故郷には、町営の星野記念館が建てられている。 その一室に音響完備のカラオケが用意されている。スピーカーからもメロディは流れるが、ヘッドフォンから聞こえる鮮明な伴奏に乗って一曲歌うと、なんだか歌手のレコーディング気分に浸れる。 星野哲郎作詞・船村徹作曲のヒット曲を、たった一人の聴衆を前に熱唱したこともあった。

遙か昔、美空ひばりの「悲しき口笛」や「私は街の子」など次々にヒットを飛ばす、売れっ子作詞家の藤浦洸という人に憧れて、本気で作詞の腕を磨いてみようか、などと思ったこともある者にとっては、このたびの訃報は何とも切ない思いがする。 単なる一瞬の夢ではあったが、何作か作ってどこかにしまい込んだ記憶は残っている。

これからしばらく歌謡番組は、星野哲郎作品を一斉に取り上げるだろう。改めて星野演歌の神髄を味わいながら、遠い昔の夢をちょっとだけダブらせてみるのも愉しいかな・・・。

    ( 写真 : きれいな海を眺めながら作詞に打ち込んだという瀬戸の海 )

 

 

 

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「幻想の錦帯橋」

2010年11月15日 | つれづれ噺

11月14日日曜日夜、天下の名橋錦帯橋が、幻想的なブルーにライトアップされた。 広島原爆ドーム・厳島神社(宮島)も同時にブルー一色に染まったと言う。

何はともあれカメラを担いで一目散。 早い夕暮れが漆黒の闇に変わるのを待ってシャッターを。

これまでも錦帯橋ライトアップは、何度かカメラに収めてきた。 今回のようなブルー一色に浮かび上がる夢見心地の五連のアーチはあまり記憶にない。 先ずは下流側から、遥かお城山の、こちらもライトアップに輝く岩国城を戴いた錦帯橋を。             

次いで、上流側に移動。まさに天に昇らんとする龍の姿とはこれをいうのか・・・と思わせる見事さ。

さらに移動して、冬枯れを目前にした静かな水面に映えるその雄姿を。  今日ばかりは理屈抜きで、幻想的な我がお国自慢の錦帯橋を愉しんでいただけると有難い。

ただ一つだけ、何故いま、広島・宮島・岩国の三大観光地が揃ってブルー一色なのか。

この世から糖尿病の脅威をなくそう、という切実な願いが込められた世界糖尿病デーを前にした一大キャンペーンのデモンストレーションということである。 ただ幻想的で美しい・・・と見惚れるのもいい。が、腹八分目、全てに満腹を求めず、節制に勤める啓蒙が込められていることを、ちょっとだけ知っておきたいものだ。

 

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「負けて覚えることもある」

2010年11月13日 | 家族・孫話

孫兄弟が通う小学校区内に、400年以上に及ぶ伝統行事が伝えられている。 豊臣秀吉の朝鮮出兵にちなむ田浦相撲大会(でんぼすもう)。 地域の有志によって大切に保存されている。

四年生の兄ちゃんは、予選を勝ち抜いて本番の土俵に上がることになった。

選手が控えるたまり場ではジジにVサインを送る余裕も見せていた。 ところが、本戦取り組みでは見事に初戦敗退。 一発勝負のトーナメントその時点で「四年生でも優」の夢は破れた。 涙があふれていた。 立ち会いは悪くなかった。相手が小柄だっただけに少し油断があったか、思い切って突っかかったところを、相手は下がりながら引いた。相撲になる前に勢い余って手をついた。

でも、予選を勝ち抜いた賞品はもらって帰った。不本意な顔ではあったが、夕方我が家に見せにやってきた。 しっかり褒めてやった。 頭を撫でながら、ジジの蘊蓄も少しだけ吹き込んでおいた。

2年生のカー君は予選で悔しい思いをしていた。 その分、兄ちゃんの応援に力が入ったらしかった。 担任の女先生が「和来君は優しい子です。泣きべそかいていたので理由を聞いたら、兄ちゃんが一回で負けたから涙が出た」と教えて頂いた。 負けて初めて知る兄弟の思い。これは決して無駄にはならないだろう。 いつか兄ちゃんにしっかり話して聞かせよう。

控えで待つ姿や立ち会い寸前の姿には勝手にシャッターが切れた。 だが、あっと言う間に負けた瞬間はシャッターを押す指が動かなかった。 負けた姿はまぶたに焼きつけても画像には残さなかった。

誰よりもジジの頭の中に、負けの悔しさが残っていたのかな。困ったもんだ。

 

 

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「季節外れの・・・」

2010年11月12日 | 季節の移ろい・出来事

            

いつものようにゆるやかな朝日を受けている窓のカーテンを開ける。 ウン??寝起きでまだ目が霞んでいるのか、景色がモヤーっとしている。目をこすってみる。景色の不鮮明さは変わらない。

11月12日  西日本を中心に12日朝、黄砂が観測された。気象庁によると、黄砂は春先が多く、11 月の観測は2005年以来、5年ぶり。東日本や北日本にも広がる見通しで、洗濯物の 汚れや車の運転に注意するよう呼び掛けた。 ・・・とテレビから聞こえてくる。 そうか季節外れの黄砂か・・・。目が霞んでいるのではなかった。ひと安心。

取り敢えずカメラを抱えて海に出た。黄砂に霞む島影を・・・と思ったら、島影など全く見えはしない。そう遠くない海上に工事用の台船が浮いていた。これも距離のわりには霞んで見えた。若いときの物思う夜だったら「夜霧よ今夜もありがとう・・・」などと歌い出すに違いない。

山はどうか、こちらも近くの灘山が遙か遠くに見えるほどまるで春霞を思わせる。夜だったら「朧月夜」か・・・。海も山も季節外れの黄砂に包まれた今日一日。 こちらは季節を外さないようタマネギ450本をやっと植えた。

未明の小雨がほどよく畑の表面を濡らしている。 ヨシッ今日だ!! 重い腰を上げて先日こしらえたばかりの畑へ白玉中生300本。赤玉晩生(おくて)150本。 思ったより時間が掛かった。腰が伸びない、膝は笑う。

人には言われないここだけの話し、普段の運動不足がモロに頭をもたげる。 友の健康を案じるのもいいが、その前に自らの足腰を見直そう。 アイタタッとならないように。 黄砂は季節外れと笑われたが、健康管理に季節はない。少しずつでもやらないと、本当に目が霞んでくるかも・・・。 クワバラクワバラ。

         ( 写真 : 海も山も季節外れの黄砂に包まれて )

 

 

 

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「喪章の一日」

2010年11月10日 | 家族・孫話

            

あれから2年。11月10日は母の祥月命日。 

丸2年が過ぎることを仏教では三回忌と言う。 お寺さんにお越し頂いて、ねんごろに三回忌法営んだのが10日前。 今日は朝一番で、何は置いてもお墓参りからのスタートとなった。

桜が紅葉し、風吹けばハラハラ散り行く光景が、あの日と同じように目の前に広がっていた。その向こうで母の好物のふゆう柿がたわわに実る。 脇の方では、か細いコスモスがこれもまたあの日と同じように、彼岸と此岸の間を行き来する不安な母の気持ちを象徴するように、晩秋の風の中、右に左に心細く揺れていた。

2年という歳月は、思い出に色を付けたり、人の気持ちを脚色する効果はあるように思える。 母を見送ってしばらくは、出来るだけのことを本当にしてあげたのか。もっともっとやれることがあったのではないか。そんな自責の念ばかりが頭をよぎっていた。

お浄土に召されて、一周忌・三回忌をこの手で執り行って今思うと、やっぱり私たちと一緒に住んだ母は幸せだったに違いない、と思えるようになりつつあることだ。 確かな自信ではないが、そんな気持ちがふくらんでいる。 あれこれの思い出話全てに笑いを込めて話が出来る気安さが生まれてきた。 「えらい自信じゃやの~・・・」とあの世から聞こえてきそう。「ウン、そうよ」と返事が出来るのも間もなくだろう。

そして今日は今ひとつ、9月22日に88歳で亡くなった従姉妹の五十日祭(いっかさい)に参列した。仏教の四十九日法要が、神道ではこのように言われている。お墓への納骨にも立ち会った。

胸に刻んだ喪章と終日仲良く付き合う晩秋の一日であった。

( 写真 : 風に舞う桜の紅葉、その向こうにふゆう柿。頼りなく風に揺れるコスモス )

 

 

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「大詰め、岩国検定」

2010年11月09日 | 岩国検定

11月28日に実施予定の「岩国検定」もいよいよ大詰めの段階に入った。

受験申込みの〆切も終わった。が、当初の予定人数にはまだ若干?の空席がある。そんな話しを、当地方で一番読まれている新聞社に持ち込んだところ、「受験者再募集」との見出しで、今日の岩柳面(岩国・柳井版)に掲載してくれた。

「・・・第1回岩国検定の受検者が募集定員(300人)に達しないため再募集する・・・」と正直に書いてある。 我々実行委員会も、当初はそのくらいの応募者を集めたいな、という希望的観測で、岩国短大の大演習室二部屋、320人の部屋を確保した。

ところが、世の中には「検定」とか「試験」とか名が付くだけで、そっぽを向く御仁が多いこと多いこと。それだけ、若かりし頃から試験には痛めつけられた思い出がいっぱいあるのだろう。私自身大いに「試験怖い」の一人ではある。それを敢えて、岩国市民の観光や歴史に対する感覚・民度と言ったものを試してみたいと思い立ったのだが、やはり「興味はあるが、いい点が取れなかったら恥ずかしい・・・」との自己防衛本能に翻弄されている。

しかし、新聞発表した通り応募期間延長、目下受付中!!

是非このブログに目を通して頂いている方々にご協力を頂けると有り難い。  今何人か?って、まだ〆切が終わっていない段階でそれを聞くのは野暮というもの。世の中粋な話しで過ごしましょうや。

と言いつつ、実は前日の準備、当日の運営、直後の採点・結果通知などの準備に大わらわ。気持ち的には非情に充実した日々を過ごしている。この上に、10人でも20人でも受験者が増えてくれるなら、この気持ちはさらに盛り上がることだろう・・・と、前向きな夢でも見ながら眠るとしよう。  枕は決して高くはないが・・・。

申込み先  〒740-0021 岩国市室の木町3丁目14-7  

          岩国検定実行委員会事務局  (0827-21-8032)

  ( 写真: 岩国検定の出題ヒントが隠されているかも知れない、岩国観光名所)

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「写真展」

2010年11月08日 | 趣味・・エッセイ

同級生が主宰する写真家のグループがある。1年に1~2度写真展を開催する。何はさておき参考に毎回必ず見させてもらっている。 グループ名は「写団 のら犬」目下メンバー11人。

ここんところ随分腕が上がったように感じる。などというと同級生のリーダーが「生意気言うんじゃない」と口をへの字にするのが見えるが、正直感動する作品がたくさんある。

「写団 のら犬」名前の由来は、鎖につながれないのら犬の如く自由に歩き回り、これと思った被写体には食らいついて行こう・・・という意気込みである。その意気や良し。いずれ劣らぬ力作揃いだ。のら犬も若さはじけるときには、食らいついた歯形が生々しく残る感じがある。が、段々年輪を重ねるに従ってのら犬の歯だって少しは弱まる。そのほどよい弱さ加減が、芸術という分野ではなんとも言えぬ円熟の領域に達するのかもしれない。

元々市美展の最優秀賞に名を連ねる仲間や、中央から声が掛かる仲間もいるグループだ。勝手気ままなブログにアップする行きがかりのスナップとは訳が違う・・・ちょっと褒めすぎた。でもまあカメラを手にする者にとって、参考になることは間違いない。

岩国シンフォニアという最高の会場での写真展。可愛い姉妹が手に手を取って「あれはな~に?」と言い合いながら会場に笑みを振りまいていた。ここにも芸術の秋が息づいていた。

  ( 写真: 幼い姉妹が手に手を取って、愛嬌振りまく写真展会場 )

 

 

 

 

 

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「いのちの山河」

2010年11月07日 | 旅行・レジャー
小雨けぶる晩秋の寒い日曜日。久しぶり映画館に出向いた。
娘の仕事関連で依頼されたらしく、是非前売り券を買ってくれと頼まれての映画鑑賞。
形は頼まれ付き合いであったが、映画の感想は「やっぱり行ってよかった」となる。

長く無医村だった岩手県の、冬場は豪雪に閉ざされる山あいの沢内村。
村の抱える「豪雪・多病・貧困」を「沢内村三悪」として、都会から故郷に帰った夫婦が、教育長・村長を歴任していく中で、村の組織作りに始まって村民の意識改革を成し遂げる。ドキュメンタリーの物語り。

自分が生まれた村に並はずれた愛着を持ち、村民の生命と健康を守り「この村で生きてきて良かった」と思える村にしようと立ち上がった深沢村長と村民の奮闘の日々がつづられている。
「生命尊重」の理念を掲げ憲法25 条を盾に老人と乳児の医療費無料化を実現し、全国でも最悪だった乳児死亡率を全国初の死亡率ゼロにまでもっていった。
村の財政を村民の包括的健康のすすめや、福祉重点において「生命行政」を実現していく。

テーマは、映画を通して日本国憲法25条を今一度考えてみようということだった。
『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』 と

そして、大きな変革を遂げるには、人間愛ともいうべき奥深い優しさを土台にした、強いリーダーシップが欠かせないことを言いたかったのだろう。
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「ネコババせんよ」

2010年11月05日 | 家族・孫話
ありし日の母のあれこれを思い出しながら書いたはがき随筆「ネコババせんよ」が、あと5日後に三回忌祥月命日を控えた今日、毎日新聞に掲載された。


『 85歳まで電卓片手に現役を通した母。
引退から10年たっても、他人の世話になるデイサービスを嫌がった。
「仕事に行くつもりで行けばいいじゃ」と勧め、渋々、週2回通い始めた。
「今日はタオルを畳む楽な仕事じゃった」と嬉しそうに報告する。
そのうち「給料はいつくれるんや?」と真顔で私に聞く。
頭の回転が少しずれてはいても「仕事をすればお金になる」という欲の皮は健在だ。
 さんずの川の船頭さんにおひねりの一つもあげたかったのかな。
101歳で逝った母。
間もなく三回忌を迎える。 』


このような、母にまつわる思い出話はいっぱいある。
今は楽しい思い出として笑って話せる、しかし、当時はそんな余裕はなかったような・・・。
最後まで同居した者にしかわからない悲喜こもごもが見え隠れ・・・。

  ( 写真: 2004年9月15日 敬老の日お祝い膳を囲んで、ありし日の母 )
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「五つ六つ七つ・・・」

2010年11月04日 | 家族・孫話
生後1年半を過ぎた三男悠雅くん。ついこの前まで「アーちゃん」が唯一の言葉だった。
一番好きなばあちゃんを呼ぶ時の掛け声が、いつしか、父さんも母さんも、兄ちゃんもじいちゃんも、保育施設の保母さんも全てアーちゃんとなっていた。
それが、あれよあれよという間に、言葉が五つ六つ七つと増えてきた。

ただし、いまのところ有能な通訳が必要ではある。
テレビ画面に野球が映れば、間違いなく「カーン」と身体をねじる。
何かを食べさせようとすると「ウマウマ」といい、食べさせると「オーシー・オーシー」と両手でホッペを押さえる。「おいしい」という意思表示。
その他「アンバイ!」は「カンパイ」のつもりである。魚の画面や絵をみると「タイタイ」が言える。

極めつけは、仏壇の前の写真を見て「ババ・ババ」と呼ぶ。これは明らかに、大好きバアちゃんを呼ぶのとは区別されている。兄ちゃん達が言う「バァバァ」を聞いているのだろうか。血は争えない怖ささえ感じる。 

こんな調子で言葉が一気に増えていき、行動も目が離せなくなる。
その分、脳みそも発達し、人格も形成されていくのだろう。
今を大切に、精一杯好きなようにさせて育てたい。
三人三様、無限大の夢を見させてくれるのはいつまでだろうか。
しっかり長生きして、トンビの孫がタカになるか、ワシになるか、やっぱりトンビか、しかと確かめたい。
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