「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「男女共同参画」って・・・

2010年11月02日 | 趣味・・エッセイ
10月の1ヶ月間は、山口県において「男女共同参画推進月間」だったそうだ。
『夢わかちあい 個性きらめく明日へ』男女共同参画社会。とある。
今年度はその催しのメインイベント「男女共同参画フォーラム」が岩国市で開かれた。

男女が差別なく平等に暮らすことに意義を唱える人間がいるのだろうか。
何故今、男女共同参画社会を声高に叫ぶのか、今までと何が違うのか。
こんな素朴な疑念を持ちながら、参加してみた。

先ず驚いたのは男性の参加の少ないこと。男女共同参画の行事というからには、参加者も男性が半分近くはいるだろうと思っていた。
少ないと言うより数えるほどしかいなかったように目に映った。

男女共同参画社会とは、
「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意志にによって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」 と定義されている。

議論を展開すれば明日の朝までかかっても平行線で結論は出ないのだろう。また結論を出せるほど簡単なものではない。そこには人間としての良識ある暗黙の了解というのは厳然と存在すると思う。
そのことが、男の思い上がりとか、女を差別するなどという時限の低い話しではない。

窓から見えるアオサギの生活を見ても、それぞれが役割を分担し、ガマンするところはお互いがガマンし、卵を産み、抱き育てる。その間、一方が巣につきっきり。一歩たりとも巣を離れることはない。そしてもう一方は狩りに出かけ一日に何回となく確実に餌を運ぶ。雨風に耐え、飢えることもなく協力して子どもを育てる。

この役割分担に異論を差し挟む余地はない。
人間の世も未来永劫、男は子どもを産めない。子どもを産めるのは女性の特権である。
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「三回忌法要」

2010年11月01日 | 家族・孫話
        

母が逝ってまる2年になる。
子ども一同、孫、ひ孫が集まって三回忌法要を営んだ。

回忌法要とは、故人にまつわる親戚縁者が一堂に集まって、親しく顔を合わせ、消息を確かめ合うよう、故人が取り計らう気配りに他ならない。と言う話しを聞いたことがある。
まさにその通りかなと思う。
一周忌法要から1年。何事も無ければ疎遠になりがちな姉・弟達を、母の力で呼び集めて仲良く仏壇に手を合わせ、酒食を共にして、益々絆を深めさせる粋な役割を果たしてくれているのだろう。

住職さんにおいでを願い、ねんごろなる読経の中、みんなが順番にお焼香をする。
このような姿を、母からいえばひ孫となる幼い3人にしかと見せておきたいし、このような儀式をすることが、亡きバァバァに対する感謝の気持ちを表すのだ、と言うことを暗黙の内に教えておきたい。

若い独身の住職さんではあるが、「御仏のお姿をよくご覧いただきたい。あの細い目は、優しい慈悲の目で私たちを見守っていて下さる。あの大きな耳は、私たち生きている人間の苦しいこと悲しいこと楽しいことなど、全てをしっかり聞いていて下さる。だから世の中決して独りなどではなく、御仏はちゃんと見て、聞いて下さっている・・・」と話された。
生前の母が、柔和な笑顔で背中を丸めながらお寺参りしていた様子もよく観察されていた。

亡くなってからの2年間が早かったのか遅かったのか、なんとも言い難い。が、こうして三回忌法要を営むとなると、また新たな感慨が湧いてくる。思い出もひとしお。

母が逝って半年後に生まれた悠雅くんが、読経のときも、食事会になっても、我が物顔で大声を出しながらはしゃぐ。
ひょっとしたら母の命を受け継いで、この世に新たな生命を誕生させたのかと勝手に想像する。
なんとも不思議な縁を感じずにはいられない。
コメント (6)
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