今朝の新聞で、フォークシンガーの高石ともやさんが亡くなったことを知った。
17日、病気のため82歳で死去したとのことだった。
1941年生まれの彼が、私の同じ大学の出身者だったことを知ったのは、かなり後のことだった。
「おいで皆さん聞いとくれ ぼくは悲しい受験生」で始まる受験生ブルースが累計90万枚を超える大ヒットとなったのは、1968年。
私はまだ小学生だったし、高石ともやさんはテレビ出演して歌うことはなかったから、その頃あまりこの歌には親しみは持てなかった。
その後、71年、フォークバンド「ザ・ナターシャー・セブン」を結成してからが、むしろなじみの深い曲が多かった。
「いつの日にか 君にあえると きっときっと信じてた けど もう やめた やめた」と歌う、「想い出の赤いヤッケ」は、何度か聴いて、初めていい歌だなあと感じた曲だった。
「私に人生と言えるものがあるなら」は、アメリカ民謡だったそうだが、この歌も好きだった。
本当に好きだった人とやり直せるものならばやり直したいのに、やり直せない人生。
その切なさが、若いときには分からなかったが、今は以前に比べよくわかるようになってきた。
高齢化してきてから、なぜかたまにこの歌を口ずさむこともある。
一番好きだったのは、「街」 という曲だった。
これについては、以前ここに書いたことがある。
歌も好きだったが、それ以外にも好きだったのは、彼がランナーだったことだ。
マラソンやトライアスロンに積極的に挑戦していた。
公式サイトによるとマラソンの最高タイムは79年の京都マラソンの2時間47分7秒。93年には米の約4700キロを走る「トランス・アメリカフットレース」を完走したのには、びっくりした。
ホノルルマラソンには1977年の第5回大会で初参加し、2019年まで43回連続で出場し、一昨年2022年にコロナ禍明けで3年ぶりに出場したのが最後だったそうだ。
自分には到底真似できない、「シンガーソング・ランナー」と称されるほどのランナーであった。
今回、彼が亡くなったことで、有森裕子さんが秘話を公表している。
1996年にアトランタ五輪で銅メダルを獲得したときの名言、「初めて自分で自分を褒めたい、と思います」は、高石さんがランナーのために作詞・作曲した「自分をほめてやろう」という曲から来ていたのだそうだ。
有森さんとその曲の出合いは、彼女が高校2年の時。
彼女は全国都道府県対抗女子駅伝の岡山県代表に選ばれながらも、補欠に決まった。
気落ちして参加した開会式で、高石さんの「自分をほめてやろう」という詩を聞いて、号泣してしまったのだそうだ。
そして、その言葉がずっと心の中に残っていたからこそ、五輪のレース後、自然と口に出たのだということだ。
その「自分をほめてやろう」は聴いたことがなかったので、検索してみた。
高石ともやさん本人が歌ったものではないが、YOUTUBEでどんな歌なのかを聴くことができた。
自分をほめてやろう 高石ともや 詞・曲
この大会に選ばれたことを もう一人のあなたに
よくここまで来たねと ほめてやってください
自分で自分をほめるのが とても自然なこと
頑張ったのは君だから 自分で決めた道だから
練習のつらさ 負けた悔しさも それでも走り続けた訳も
君だけが覚えてる 今夜は自分をほめてやろう
見えるだろう ひとすじ道 君が選んだ長い道
見えるだろう ひとすじ道 みんなが君を待っている
明日のレース 目標通り うまく走れたら
おめでとうって自分に声かけて 心から笑えばいい
明日のレース 失敗しても もう一人のあなたに
悔しいねって声かけて 涙流せばいい
ケガした足に誓ったはずさ 最後まであきらめないと
君だけが覚えてる 今夜は自分をほめてやろう
見えるだろう ひとすじ道 君が選んだ長い道
見えるだろう ひとすじ道 みんなが君を待っている
高石ともやさんの歌には素朴さ、誠実さ、爽やかさを感じる歌が多かった。
聴いていて元気をもらうことが多かった。
そして、年齢を重ねても走る、憧れのランナーだった。
ご冥福をお祈りいたします。 合掌