大変、長い汽笛が聞こえてきました。
いま、SLが走った?
思わず、東側の窓に行って、駅方向を見ました。
すると、グレーの煙が流れています。
進行方向は、北です。
SLが通りすぎた様です。
残念!
私の家は、駅から歩いて7分です。
知っていたなら…
もう一度、汽笛をならし、シュッ、シュッ、という音を残して行ってしまいました。
年に何度か、聞こえてきますが…
汽笛の音、いいなあ~
京都三条大橋
京都三条大橋は江戸日本橋を振り出しに東海道五十三の宿場町を経て、
最後の地点。
それから昭和の時代に入り、
この写真では、高山彦九郎の銅像がもうありますし、車も走っています。
徳川三百年の太平が大きく揺れ始めた幕末の頃には、
この辺りも、血なまぐさい政争の渦中にありました。
「池田屋騒動」 のあったのは三条大橋から少し西に行った所で、
高瀬川にかかる三条小橋のほとりにありました。
ペリー来航以来、尊王攘夷運動も大きくなり、この頃には、
徳川幕府に日本全国をまとめる力はもう無くなってきていました。
安政の大獄、桜田門外の変、様々な事件の中、長州、薩摩、土佐藩の動きも
激しくなっていきました。
1864年、6月5日、「池田屋騒動」 は起きます。
長州藩士はじめ20数人の志士が池田屋に集まり、蜂起の手はずを整えようと
談合をしていました。
そこへ、近藤勇以下、新選組の隊士たちが一斉に斬り込んだのでした。
池田屋の二階は壮絶な乱闘の場となり、階下へも屋根伝いの道も
封じられ、志士たちは一時間ほどの間に、次々と斬られ亡くなる者、
重傷を負う者、捕えられる者と、多くの犠牲者が出ました。
その報復というか、
1864年7月、長州藩は「禁門の変(蛤御門の変)」 を起こします。
しかし、長州藩はまたもや敗北となりました。
その後、1864年8月、4国(英、仏、米、蘭)連合艦隊下関砲撃事件が起きます。
1863年に長州が下関の海峡で4国の船を砲撃したことへの報復でした。
4国艦隊は下関に上陸し砲台を占拠、長州は壊滅的な痛手を受けました。
その後、幕府は1866年には第二次の長州征伐をしますが、薩摩藩は
すでに結んでいた「薩長連合」を守り出兵はしませんでした。
将軍家茂が第二次長州征伐に江戸出兵の図
幕府軍は旧式装備、長州藩の新型小銃装備には勝てず、家茂死後、
休戦となりました。
その頃、龍馬は…、
1864年(元治元年)5月、神戸に「海軍操練所」 が設置され
「軍艦奉行並」の「勝海舟」の指導のもと、多くの土佐藩や諸藩の志士達と共に
訓練に励んでいました。
近江屋騒動の起きるまで、あとわずか3年と迫ってきていました。