「長崎・出島」 へ行こうと中島川の石橋群からずっと川沿いに歩いていきました。
昔、教科書で「出島」 の名は見てはいても、いったいどういうものなのか、
殆ど知りません。 勉強してなかったんですねえ~(=_=)
そして、今回は「龍馬」 と関わりのある「龍馬点」 を探しに来ています。
龍馬は、出島と関わったことがあるのだろうか?
あったなら、それはどういうものだったのだろうか?
現代の中島川沿いはバスや車など交通量の多い通りです。
川沿いにグーンと右にカーブすると、間もなく「出島」 が見えてきました。
橋を渡ります。
橋のたもとに、「史跡 出島和蘭商館跡」 の石碑 がありました。
「出島」 は低い白壁の塀に囲まれていました。
鎖国時代、約200年間 西洋に開かれた唯一の窓口、それが「出島」でした。
しかし、鎖国が解かれ必要がなくなると、明治以降、出島付近の埋め立てが進み、
明治37年(1904)、出島はその姿を消してしまいました。
今、その歴史的価値を再認識され、復元整備事業が進められ、
平成12年、「ヘトル部屋」を始めとする5棟が完成し、その後も着々と復元が
進められています。
江戸時代に生きていたとしても、中に入ることなど出来なかった「出島」
今、その姿を見ることが出来るようになったことは、素晴らしいことと思います。
そして、中には色々な建物がありました。
①「旧出島神学校」
「旧出島神学校」 は明治11年(1878)に建てられた現存する、
わが国最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校。
水色の爽やかさを感じる建物でした。今は中に、「企画展示室」「売店」「料金所」
があります。
「龍馬伝」 の旗がたなびく横を、たくさんの観光客が通り過ぎます
平日なのにサラリーマンらしき人の訪れているのを、ここでも、亀山社中でも
よく見かけたのは意外でした。 龍馬人気の賜物?
②「表門」 この門の向うは中島川で区切られ、今マンションの見える対岸は
「江戸町」 と呼ばれていました。
江戸時代には、対岸の江戸町側から「表門橋」 を渡ると、この表門があり、
ここに詰めている「探番(さぐりばん)」 が出入りする人を改めていました。
元々の表門の位置は、中島川の中央付近だったそうです。
上の写真の川の真ん中辺りまで、出島がデジマした、いや、出てました (^_^;)
川の変流工事で、元あった場所が削られてしまったのだそうです。
表門は再現されていますが、表門橋は今は、ありませんでした。
「旧石倉」 この前の立札にはこういう風に記されていました。
この間の「龍馬伝」 でも、龍馬はライフル銃を一千三百挺を買い入れて、
船で土佐に届けていました。その商談は出島で、銃の保管もここの石倉だった
可能性が高いと記されています。
龍馬が出島を訪れたとしても、なんの不思議もないですものね。
他にも、色々な建物がありました。 後程…。