『人に嫌われたかったら、自分の自慢話ばかりしていればいい。だが、人に好かれたいのならば自分の失敗談をすることだ、といいます。
私たちはふつう、人によく見られたいと、自分のいいところばかりを人に見せたがり、欠点は隠したがります。
『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」に「瑕疵(かし)を護り惜む」という言葉がありますが、自分の欠点を知りながらそれを後生大事にして、思いきって切り捨てることができないのです。
自分の短所を切り捨てるのには痛みが伴います。その痛さを恐れて傷をかばっているわけです。
その自分の欠点や失敗を思いきってさらけだせるようになると、それが飛躍のバネに変わるのですね。その訓練の場が法座だといってもいいでしょう。
法座でみんなが謙虚に自分を包み隠さずに話している姿を見、その話を聞いて心から感動すると、自分もありのままをさらけださずにいられなくなってきます。すると人に言われなくても心の底から自分を反省できるようになるのです。それで新しい一歩が踏みだせるのですね。かっこよく見られたいと思っているうちは、本当にかっこいい生き方はできません。』
庭野日敬著『開祖随感』より