次の美江寺宿までの一里七町は、かつては田んぼが広がるなかを行くのんびりした道中であったことが想像されます。
しかし現在は、住宅が建ち並ぶなかを行く生活道路となっており、古えの風情は代官所があった本田(ほんでん)地区以外に、まずありません(上段写真)。
五六(ごろく)川にかかる五六橋を渡った先には、
『左右とも畑なり。山遠くして見えず。松並木をゆくこと長し』
と古えの道中記にあるような景色 . . . 本文を読む
加納宿(岐阜)まで歩いた旧中山道、久しぶりにその先を歩いてみます。
江戸より106番目の「三里一里塚」跡を左手の住宅地のなかに見て過ぎ、その先でJR線の高架下を桝形(上段写真)に通って、宿場を抜けます。
そして本荘町、鏡島(かがしま)と、現在は両側に住宅が続くなかを、蛇行しながらしばらく進みます。
そして論田川にかかる船橋を渡って岐阜道との追分を過ぎ、さらに二十分ほど行くと、鵜飼いで有名 . . . 本文を読む
新加納を過ぎ、高田から蔵前という地区にかけては、道が幾度も蛇行して続き、独特の風情があります(上段写真)。
蔵前をすぎ、陣屋のあった切通(きりとおし)から細畑(ほそはた)にかけてはほぼ直線で、沿道のところどころには、いにしえを彷彿とさせる民家がのこされています。
町なかにしては珍しく、両塚ともよく原形をとどめている「細畑(ほそはた)一里塚」を過ぎ、
JR東海道本線のガードをくぐり抜け . . . 本文を読む
鵜沼宿は町並みが観光用にやたらとキレイに整備され、特に復元された脇本陣は、真新しい白木の建物であるため、かえってシラケます。
それよりも、宿場のなかほどにある明治四年創業の酒造会社「菊川」の建物に、歴史と風格を感じさせます(上段写真)。
次の加納宿までは、実に長丁場の四里十丁(約17㌔)ですが、そのかわり道は平坦なので、歩調を少しはやめて行くことに。
JR高山本線の「各務ヶ原駅」から名鉄 . . . 本文を読む
勝山地区で国道を山側へ横断し、崖伝いに坂を上って岩屋観音の前で下り、騒音と砂埃にまみれながら、木曽川に沿って湾曲した国道21号線を、20分ほど行きます。
すると左手に廃墟となったドライブインがあり、その敷地のはずれで沢にくだって国道の暗渠をくぐり抜け、「うとう峠」へと入って行きます(上段写真)。
木曽川沿いの地形が険阻で通行が危険なため拓かれた峠道で、10分ほどで頂上に。
とたんに右手がパッ . . . 本文を読む
宿場を抜けてしばらく行くと、左手に舞台のような立派な拝殿をそなえた深田神社が。
ここで芸事をやったら楽しいだろうな、と思ったわたしは、端に座って謡いを少しうたってみたところ、音が天井によく響いて、満足満足。
聞き苦しいものをお聞かせしました、と神様に詫びて、再び旅路へ。
旧道はしばらく木曽川に沿って進んでから、
陸の内側へと逸れて、国道21号線に合流となります。
しかし、車の騒音 . . . 本文を読む
木曽川を横断する「今渡の渡し」は、対岸の太田宿では「太田の渡し」と、呼び名が異なっていました。
また、流れが急で川底も深かったことから、
“木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなければよい”
と、言われるほどの難所でもありました。
渡し場は江戸時代の初期にはもっと下流にあり、「土田(どた)の渡し」と言われていましたが、やがてこの場所に移り、
昭和2年2月、すぐ上流に太田橋が開通するま . . . 本文を読む
謡坂を下ると、再び車道に合流。
緩やかな坂を下りながら、耳の病に効くという珍しい「耳神社」を、右手の崖上に見て過ぎます。
やがて右折して山道へ入ると、あまりの急坂に牛が鼻をこすって欠いたことからその名が付いたとされる、「牛の鼻かけ坂」に(上段写真)。
この急坂を下れば、あとは京まで、道は比較的なだらかとなります。
思えば碓氷峠からここまで、山道につぐ山道でした。
実際に歩いてみて、
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ゆったりとした坂道に軒を連ねていた細久手宿は、慶長11年(1606年)に大久保長安の命をうけた国枝与左衛門が、七軒ほどの仮宿として設けたのがはじまり。
ところが、まもなく放火で全焼、四年後の慶長15年(1610年)に再興されました。
この宿場はその後も江戸時代を通じて三度、火災に見舞われています。
この宿場火事は、幕末に至ってとんだエピソードを生むことに。
和宮下向の際、ここに宿泊する予定 . . . 本文を読む
大湫宿の静かな風情にホッとしたのも束の間、今度は「琵琶峠」へと、旧中山道は入っていきます。
石畳が敷き詰められたこの峠道は標高558㍍、上りはじめて10分ほどで頂上に。
そして下りはじめると、すぐに「八瀬沢の一里塚」が。
峠を下りきるとすぐにアスファルト舗装の道に合流、さらに坂を上がった先で県道65号線と合流し、尾根づたいの比較的なだらかな車道を、延々と歩きます。
あまりにも普通の車 . . . 本文を読む
紅坂一里塚を過ぎ、立場茶屋(休憩処)のあった深萱という集落に向かって石畳を下って行く途中、その石畳に、不思議な紋様の岩が紛れています(上段写真)。
これは昔から「ぼたん岩」と呼びならわされてきた岩で、学術的にもたいへん貴重な岩なのだとか。
さて、旧中山道はこのあとも、激し過ぎるほどに坂の上り下りを繰り返し、
“十三峠におまけが七つ”
とはよく言ったものだ、と汗を拭き拭き感心していると、 . . . 本文を読む
さて、西行法師にちなんだ旧跡を横目に歩くこと約三十分、中央本線の仲仙道踏切を渡ると、中山道は次の大湫宿まで、大小さまざまな坂道が連続していたことから、「十三峠」と呼ばれた難所へと入っていきます。
現在この道筋は、「東海自然歩道」として整備され、坂道はかなりキツイですが、散策には楽しいコースです。
十三峠に入ってしばらくすると、「槙ヶ原の一里塚」が南北そろって遺されています。
美濃路の一 . . . 本文を読む
岡瀬沢から甚兵衛坂を経て、「関戸の一里塚」跡を過ぎて菅原神社の前より石段を降り、ゆるやかな五妙坂を下ると、やがて左へ折れる枡形が。
ここが、大井宿の入口。
本陣はその先で右へ折れる枡形の左手にのこっていて(上段写真)、立派な甍を、塀越しにのぞむことができます。
大井宿は伊勢参りや善光寺参り、それに尾張へ向かう荷物などが集う、“美濃十六宿”でもっとも栄えた宿場だったそうで、
その面影は本 . . . 本文を読む
旧道が国道19号線にぶつかるその手前、左手に立場茶屋跡の碑が。
その向かいには、「嵐讃岐の供養碑」があります(上段写真)。
嵐讃岐(あらし さぬき)とは、名前の雰囲気からしてむかしの歌舞伎役者なのかと思いきや、木曽家の有力武将だった人物の名前で、供養碑は1600年代半ばのものだそうです。
旧道はこの先の国道に吸収されて数百㍍が消滅、迂回路を経て、その先より続いている道筋へと入ります。
そ . . . 本文を読む
中津川宿は木曽で伐採された木材の集積地として、また飛騨へ向かう街道が交わる宿場として、かつて栄えていました。
現在は駐車場となっている本陣跡から、京側の枡形にかけて、その面影を見ることができます(上段写真)。
中津川橋をわたって宿場を抜けると、しばらくは余韻のような町並みが続きます。
やがて丘を上がり、かつて駒場村と云われたあたりまで来ると、市街地から離れたことを感じさせる長閑な雰囲気に。 . . . 本文を読む