柏原宿を過ぎてほどなく、左手の田んぼのなかに、復元された一里塚があります(上段写真)。
さらに進むと、さきほど柏原宿入口の手前で分岐した旧東山道が、右手の坂から下って合流しています。
この右手の山中には、1331年に後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒に失敗した、いわゆる“元弘の変”で幕府方に捕らえられ、翌1332年に佐々木道誉の命乞いも空しく斬首された公家の北畠具行の墓所があります。
しかし現在、道の途中に設けられた獣避けの鉄柵のため、通行は不可。
このあと中山道は緩やかなカーブを繰り返しながら長沢、
昔は“あんさ”と呼ばれた梓と云う集落を過ぎ、
その先で国道21号線に合流。
そして十分ほどで左へ再び分かれ、一色地区を名神高速の下に沿って進んで一里塚跡を左手に見て過ぎ↓、
さらにしばらく行くと、“鴬ヶ端”という、平安歌人も愛でた風光明媚な高台に出ます。
かつて旅人の誰もが足を止めて魅せられたという遠景は、現在はかくのごとし↓。
この高台を下ってすぐ左に折れる桝形が、「醒ヶ井宿」の入口です。
「醒ヶ井(さめがい)宿」はヤマトタケル伝説にその名の由来を持つ宿場で、道の左側には涼しげな水音が心地よい水路が、現在も綺麗に整備されて残っています。
宿場を抜けるあたりには、「六軒茶屋」とよばれる建物が一軒、ポツンと遺されています。
これは、醒ヶ井宿が天領から大和郡山藩の領地へと移行した際、ときの藩主柳沢侯が彦根や日枝との境界線を明確にするため、道の北側に同じ形の茶屋を六軒並べて建てたと云う、その名残りです。
現在では写真で見るように、トタンですっかり覆われているため、うっかりしているとつい見過ごしそうです。
宿場を過ぎるとすぐに国道21号線に合流、歩道がないため、スレスレのところを飛ばして行く車にヒヤヒヤしながらしばらく歩くうち、河南地区に残る旧道へと入り、15分ほど行った先の信号より国道をわたって樋口地区へ。
ここを過ぎると名神高速の高架下を通り、「久禮(くれ)一里塚跡」を左に見て、紅葉の並木道へと入って行きます。
さらに進むと、さきほど柏原宿入口の手前で分岐した旧東山道が、右手の坂から下って合流しています。
この右手の山中には、1331年に後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒に失敗した、いわゆる“元弘の変”で幕府方に捕らえられ、翌1332年に佐々木道誉の命乞いも空しく斬首された公家の北畠具行の墓所があります。
しかし現在、道の途中に設けられた獣避けの鉄柵のため、通行は不可。
このあと中山道は緩やかなカーブを繰り返しながら長沢、
昔は“あんさ”と呼ばれた梓と云う集落を過ぎ、
その先で国道21号線に合流。
そして十分ほどで左へ再び分かれ、一色地区を名神高速の下に沿って進んで一里塚跡を左手に見て過ぎ↓、
さらにしばらく行くと、“鴬ヶ端”という、平安歌人も愛でた風光明媚な高台に出ます。
かつて旅人の誰もが足を止めて魅せられたという遠景は、現在はかくのごとし↓。
この高台を下ってすぐ左に折れる桝形が、「醒ヶ井宿」の入口です。
「醒ヶ井(さめがい)宿」はヤマトタケル伝説にその名の由来を持つ宿場で、道の左側には涼しげな水音が心地よい水路が、現在も綺麗に整備されて残っています。
宿場を抜けるあたりには、「六軒茶屋」とよばれる建物が一軒、ポツンと遺されています。
これは、醒ヶ井宿が天領から大和郡山藩の領地へと移行した際、ときの藩主柳沢侯が彦根や日枝との境界線を明確にするため、道の北側に同じ形の茶屋を六軒並べて建てたと云う、その名残りです。
現在では写真で見るように、トタンですっかり覆われているため、うっかりしているとつい見過ごしそうです。
宿場を過ぎるとすぐに国道21号線に合流、歩道がないため、スレスレのところを飛ばして行く車にヒヤヒヤしながらしばらく歩くうち、河南地区に残る旧道へと入り、15分ほど行った先の信号より国道をわたって樋口地区へ。
ここを過ぎると名神高速の高架下を通り、「久禮(くれ)一里塚跡」を左に見て、紅葉の並木道へと入って行きます。