迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊──東海道50 大磯宿

2019-10-12 08:43:00 | 旧東海道
やがて前川地区に入り、天保三年に建立された大山道の道標を過ぎたあたりから、ゆるやかな上り坂になります。



この坂を車坂と云い、藤原為家の母である阿仏尼や源実朝、太田道灌がこの場所を詠んだ和歌が、ここの案内板に出ています。


十五分ほど歩いた橘地区で二宮町に入ったかと思うとすぐ小田原市、押切橋で再び二宮町と、境界が目まぐるしく変わるのは、細かく入り組んだ境界線のためです。


さて、押切橋を渡ると旧道は右に分かれて、


押切坂を上って行きます。

現在では普通の家並みが続きますが、茶屋という地名が示すようにかつては間の宿があり、坂を上りきって再び国道1号線に合流するあたりには、小田原宿と大磯宿とのちょうど中間にあたる一里塚がありました。

約400m、五分ほど歩いたところで旧道は左手に分かれ、目の前の海で獲れた鮟鱇(あんこう)の料理が名物だった梅澤地区を通って行きます。



梅澤坂を下り、再び上ったところで国道1号線に合流、二宮駅前を過ぎて塩梅橋を渡り、大磯町に入ると国府新宿にかけて、松並木がところどころに残るなかを進んで行きます。

国府新宿信号から旧道は左に分かれ、松並木を挟んでしばらく併行、


一里塚跡を過ぎたあたりから左に曲がって国府本郷地区を通り、


坂を下って不動橋を渡ると、今度は上りながら大磯城山公園脇から切通しを経て、信号の向こうに旧吉田茂邸をチラリと見て切通橋を渡り、国道1号線を行きます。

道が直線に続く小磯を過ぎ、伊藤博文旧宅跡の滄浪閣あたりから見事な松並木となり、



やがて大磯中学校前を過ぎて右に曲がり、下り坂にさしかかったところが大磯宿の京側見附跡、



さらに下った先の鴫立澤の左手には、小田原外郎氏の子孫にあたる崇雪が寬文四年(1664年)に建てたのが始まりと云う「鴫立庵」、



その先で右手に分かれる旧道は大きく左へ曲がってすぐ国道1号線に合流、



現在の大磯の町へと入って行きます。



かつては磯辺で盆山石がよく採れ、それを売る店が軒を連ねていたなど、石に縁の深い大磯宿ですが、曾我十郎祐成の恋人だった白拍子虎御前ゆかりの石なるものが、延台寺に遺されているとのこと。

しかし、“虎が石”と云うそれは、普段はお堂の中にありって常時公開していないらしく、「ケチくせぇことしゃァがる」と興醒めしてさっさと出、三沢橋東側信号から分岐する旧道に入ると、



古松が残る化粧坂より江戸側見附跡を過ぎ、二十七町(2.9㎞)先の平塚宿に向かいます。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「いのちを守る対策」。 | トップ | お出ましじゃの。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。