藤沢宿は東海道から大山、江ノ島、鎌倉へとそれぞれへの分岐点で、
江戸見附そばには時宗総本山の「清浄光寺」──遊行寺があるなど、門前町としてもかなり栄えたそうです。
しかしその賑わいも現在では約1㎞南の藤沢駅周辺へと移ったこともあり、整備された道にちらほらと並ぶ小さな店に、
往年をわずかに偲ばせるのみです。
また藤沢宿は義経伝説が豊富で、京見附を過ぎて程なく左手奥の、
「義経首洗い井戸」と伝わるそれも、そのひとつ。
時代の流れと共に町並みも変化していった旧藤沢宿ですが、現在も変わらないのが、遊行寺。
県道の藤沢橋手前を右折して遊行寺橋を渡ると、その先に黒塗りの惣門が見えてきます。
遊行寺は、正式には『藤澤山無量光院清浄光寺』といい、創建は正中元年(1325年)。
その後は兵火や火災に何度も遭うなど、幾多の困難を乗り越えて、江戸時代には幕府から時宗総本山として認められ、現在に至っています。
昔ながらの立派な木造本堂では、春と秋の開山忌には当地の婦人たちによって「踊り念仏」が行なわれ、
江戸見附そばには時宗総本山の「清浄光寺」──遊行寺があるなど、門前町としてもかなり栄えたそうです。
しかしその賑わいも現在では約1㎞南の藤沢駅周辺へと移ったこともあり、整備された道にちらほらと並ぶ小さな店に、
往年をわずかに偲ばせるのみです。
また藤沢宿は義経伝説が豊富で、京見附を過ぎて程なく左手奥の、
「義経首洗い井戸」と伝わるそれも、そのひとつ。
時代の流れと共に町並みも変化していった旧藤沢宿ですが、現在も変わらないのが、遊行寺。
県道の藤沢橋手前を右折して遊行寺橋を渡ると、その先に黒塗りの惣門が見えてきます。
遊行寺は、正式には『藤澤山無量光院清浄光寺』といい、創建は正中元年(1325年)。
その後は兵火や火災に何度も遭うなど、幾多の困難を乗り越えて、江戸時代には幕府から時宗総本山として認められ、現在に至っています。
昔ながらの立派な木造本堂では、春と秋の開山忌には当地の婦人たちによって「踊り念仏」が行なわれ、
その後ろにある「小栗堂」には、小栗判官と照手姫、名馬“鬼鹿毛”のものとされるお墓が伝わっています。
さて、旧東海道は遊行寺の前で枡形に二度折れると、寺の東側に沿って遊行寺坂(或いは道場坂)を上り、
すぐに江戸見附を過ぎて宿場を出てて、一里塚の跡を経て坂上に。
僅かに松並木が残る道を十分ほど進んで横浜市戸塚区に入ったところが、鉄砲宿。
今は昔、このあたりにあった池のほとりを歩く人の影を、空腹に堪えかねた大蛇が食べてしまうため、村人は鉄砲名人の猟師に頼んで、大蛇を退治してもらいました。
その猟師の住んでいた場所がここだそうで、道端の案内柱に記された上述の民話には、生死に関わる問題に直面した人間の身勝手さが、色濃くにじみ出ているのが印象的です。
また、ここの地名を「影取町」と云うのも、上述の如く大蛇が人の影を食べていた伝説に因んでいるわけで、そこには何か“元ネタ”が隠されている気がします。
ラジオの交通情報などで必ずその名前が出て来る“渋滞の名所”の印象が強い影取町ですが、その町名の謂われには、なかなか深いものがあるわけです。
さて、旧東海道はその先で藤沢バイパス出口の国道1号線に接しますが、
その右脇にのびているのが旧道。
その先の諏訪神社前で合流すると、
凄まじい交通量と騒音の巷を、しばらく進んで行くことになります。
その先の諏訪神社前で合流すると、
凄まじい交通量と騒音の巷を、しばらく進んで行くことになります。