小田原宿は小田原城の城下町、やはりここを外すわけにはいかないでしょう。
もともとは扇谷上杉氏の持ち城だったものが明応四年(1459年)に北条早雲の手に移り、以後“後北条氏”の居城として五代つづきますが、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉に攻められて降伏、氏政と氏照の兄弟は自刃しました。
その二人のお墓は小田原駅東口の栄町2-7-8、“おしゃれ横丁商店街”という夜の飲食店が集まる路地の一角に、現在もあります。
ちなみに後北条氏は、氏政の自刃後は助命された弟が家督を継ぎ、その息子の代に河内佐山藩の藩主となって明治維新を迎え、現在も子孫の方がおられます。
さて、小田原宿は本町信号を過ぎると片側一車線の道となり、沿道には小さな商店や民家がつづく町外れらしい風景となります。
やがて浜町三丁目の蒲鉾屋本店で枡形に左折し、そのすぐ先の国道1号線を右折して合流、五分ほど行くと“山王口”とも云われた江戸側の見附跡、
また一里塚もあったようで、これより四里(15.7㎞)の大磯宿をめざします。
見附跡を過ぎて国道1号線を歩くこと約二十分、常劔寺入口信号で旧道は右に分かれます。
もともとは扇谷上杉氏の持ち城だったものが明応四年(1459年)に北条早雲の手に移り、以後“後北条氏”の居城として五代つづきますが、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉に攻められて降伏、氏政と氏照の兄弟は自刃しました。
その二人のお墓は小田原駅東口の栄町2-7-8、“おしゃれ横丁商店街”という夜の飲食店が集まる路地の一角に、現在もあります。
ちなみに後北条氏は、氏政の自刃後は助命された弟が家督を継ぎ、その息子の代に河内佐山藩の藩主となって明治維新を迎え、現在も子孫の方がおられます。
さて、小田原宿は本町信号を過ぎると片側一車線の道となり、沿道には小さな商店や民家がつづく町外れらしい風景となります。
やがて浜町三丁目の蒲鉾屋本店で枡形に左折し、そのすぐ先の国道1号線を右折して合流、五分ほど行くと“山王口”とも云われた江戸側の見附跡、
また一里塚もあったようで、これより四里(15.7㎞)の大磯宿をめざします。
見附跡を過ぎて国道1号線を歩くこと約二十分、常劔寺入口信号で旧道は右に分かれます。
かつて一色村といったこの地には、新田義貞の首塚が遺っているとのことで、一見せばやと存じ侯。
旧道が分岐してすぐ右手に入る道から、人家の間の路地を回り込むようにして通り抜けた先、家に囲まれた分かりにくい場所に整備されたごく小さな児童公園の片隅に、柵で隔てられてそれは遺っています。
旧道が分岐してすぐ右手に入る道から、人家の間の路地を回り込むようにして通り抜けた先、家に囲まれた分かりにくい場所に整備されたごく小さな児童公園の片隅に、柵で隔てられてそれは遺っています。
延元三年(1338年)、新田義貞の家臣宇都宮泰藤は、越前藤島で敗死した主君の首を抱えて上州新田へ急いでいましたが病いとなり、ついに義貞の首をこの一色村に埋めて死去した、とのこと。
傍らにいくつも並んだ小さな石塔は義貞の家来のものでしょうか、草のなかにあるその姿が無常を誘います。
傍らにいくつも並んだ小さな石塔は義貞の家来のものでしょうか、草のなかにあるその姿が無常を誘います。
さて、分岐した旧道はすぐに左に折れて国道1号線に合流、かつては徒渡りだった酒匂川を、酒匂橋を通って渡ります。
クルマの騒音の向こうに、微かに聞こえる相模湾の潮騒へ耳を傾けつつ橋を渡り、中世には宿駅がおかれていたと云う酒匂を過ぎ、
クルマの騒音の向こうに、微かに聞こえる相模湾の潮騒へ耳を傾けつつ橋を渡り、中世には宿駅がおかれていたと云う酒匂を過ぎ、
ところどころに遺る松並木を楽しみながら、
小八幡から緩やかな上り坂を通って東海道線の国府津駅前を過ぎ、国道の左脇に伸びる小道を、松と磨耗した古い双体道祖神の位置からこれが旧道の名残かと見当をつけて通り、
右手に相模湾を望みながら、ゆるやかに上り下りを繰り返す現道を歩いて行きます。
右手に相模湾を望みながら、ゆるやかに上り下りを繰り返す現道を歩いて行きます。