京側から南品川、北品川、徒歩新宿(かちしんじゅく)と三つの区域から成る品川宿は、大勢の飯盛り女で大繁盛した宿場で、吉原の“北夷”に対して“南蛮”と云われたほどでした。
江戸の町人が女郎買のために品川宿までよく足を運んでいたことは落語などからも窺え、実際に昭和三十年代までは“赤線”としてその面影が濃厚に残っていたようです。
しかし現在では昔ながらの道幅に沿って普通の商店や住宅が軒を連ね、
毎年秋口に行なわれる宿場まつりの目玉企画「花魁道中」が、唯一往年を偲ばせています。
……のですが、私の探訪した日がたまたまその日に当たっており、このとき北品川で人力車に乗せられて現れた“おいらん”はなんと、小学四年生!
アナウンスによれば、“おいらん”に憧れてみずから道中に応募したのだとか。
たぶん、綺麗な着物姿に綺麗な化粧をして……と、その見た目だけに純粋に憧れたのでしょうが、十歳ちょっとの少女が遊女に憧れる、ということに、私などには話しが生々しすぎて、「なんかなぁ……」と、正直なところ全く感心できませんでした………。
そんなとき、道から少し入ったところに建つ古い山門が、目に留まりました。
その奥には、なんとも珍しい漆喰彫刻の本堂が。
この寺院は「時宗 音響山 善福寺」といい、創建はなんと鎌倉時代の永仁二年(1294年)と云いますから、東海道が整備されるはるか以前からこの地に在ることになります。
本堂の壁面に施された漆喰彫刻は、幕末から明治にかけて活躍した伊豆長八という職人の手によるものだそうで、細工の見事もさることながら、廃寺かと見紛うばかりの寂れた風情に、失礼ながらつい心を奪われました……。
さて、京浜急行線の「北品川」駅が沿った徒歩新宿の先で踏切を渡り品川宿を出ると、
旧東海道は再び国道15号線に吸収され、あとは延々とクルマと、ヒトと、歩きスマホと、危なっかしい自転車が氾濫する、ウンザリするほどつまらない都会風景のなかをニ里(8km)歩いて、終点の江戸日本橋に至ります。
つまり旧東海道探訪としては実質ここでお仕舞いなので、約三十分歩いた先の高輪の大木戸跡から江戸の領域に入ったあとは、
日本橋までをさっさと歩き飛ばして行くことにします。
高輪から芝大門、かつては烏森と云った新橋でJR線の高架下を抜けて──この界隈は道を一本入ると江戸の深い歴史を伝える史跡がいくつもありますが、それはまた別の機会に──、異人行楽集団の御用達に堕した“観光公害”の巷を抜け、
京橋を過ぎると行く手に見えるは日本橋、
ついにここまで来たかと感慨がこみ上げてくるうち、
終点の江戸日本橋に、つつがなく着きにけり。
十年近くかかった旧中山道探訪の、京からの復路として歩いた旧東海道、中山道ほど山また山でないぶん歩きやすく、また現在もその地方の主要都市として発展している街が多く、計画が立てやすいものでした。
旧街道歩きの“王道”のような東海道、ほとんどの人が江戸から京へと“上る”はず、
ならば自分は中山道で京へ上った復路として、他人(ひと)がまずやらないであろう東海道下りをやってやろう──
その目論見はみごと当たり、いかにも自分らしい道中を完遂できたと満足しています。
しかし、先人たちの切り拓いた道は、現在もまだまだたくさん存在しています。
ですから、先人たちの“思い”を辿る旅でもある私の旧街道探訪は、これからもまだまだ、続くのであります。
旧街道歩きの“王道”のような東海道、ほとんどの人が江戸から京へと“上る”はず、
ならば自分は中山道で京へ上った復路として、他人(ひと)がまずやらないであろう東海道下りをやってやろう──
その目論見はみごと当たり、いかにも自分らしい道中を完遂できたと満足しています。
しかし、先人たちの切り拓いた道は、現在もまだまだたくさん存在しています。
ですから、先人たちの“思い”を辿る旅でもある私の旧街道探訪は、これからもまだまだ、続くのであります。