化粧坂は頂上で東海道線の線路に分断されているため地下道を潜り抜け、
その先にも松並木の道が、下り勾配に続いています。
中世の大磯宿はここにあったとも云われ、前述の虎御前も、この化粧坂の白拍子でした。
その虎御前が化粧水に汲んだと云う井戸を過ぎると旧道は国道1号線に合流、椀を伏せたような姿をした高麗山の東麓を進んで行きます。
かつては“もろこしが原”という野原の一本道だったと云うここを過ぎて花水橋を渡り、間もなく平塚宿の京側見附跡となります。
東海道の脇往還(脇道)で、現在も主要交通路として機能している中原街道との追分にあたるこの地点まで、大磯宿からは三十分程の距離。
その先にも松並木の道が、下り勾配に続いています。
中世の大磯宿はここにあったとも云われ、前述の虎御前も、この化粧坂の白拍子でした。
その虎御前が化粧水に汲んだと云う井戸を過ぎると旧道は国道1号線に合流、椀を伏せたような姿をした高麗山の東麓を進んで行きます。
かつては“もろこしが原”という野原の一本道だったと云うここを過ぎて花水橋を渡り、間もなく平塚宿の京側見附跡となります。
東海道の脇往還(脇道)で、現在も主要交通路として機能している中原街道との追分にあたるこの地点まで、大磯宿からは三十分程の距離。
見附跡の石碑が立つ大通りへ入って行きそうになりますが、旧東海道はもう一本先の、右へ入る道。
平塚四丁目の住宅地を通る地味な道を経て、先ほどの大通りに合流するわけですが、この平塚四丁目には、なかなか興味深い旧蹟が二ヶ所続いています。
ひとつが、“平塚”の語源となった「平塚の塚」。
桓武天皇の曽孫にあたる平真砂子(政子とも)が東国に下る途中この地で死去し、柩を埋めて塚を築いたところ、時が経つうちに塚が潰れて平らになったことになったことから、この地を“平塚”と云うようになった、碑文は伝えています。
もうひとつは、間に公園をはさんだ西隣りの墓地にある、歌舞伎「加賀見山旧錦絵」の“召使お初”のモデルとなった松田多津(まつだ たつ)のものと伝わるお墓。
松田多津(おたつ)は平塚宿の出身で、萩野山中藩大久保長門守の中﨟岡本みつに女中奉公していましたが、岡本みつは同家の年寄澤野に辱められて自害、松田多津はすぐさま年寄澤野を訪ねて主人の仇を討った──まさに「女忠臣蔵」。
この仇討ちを御殿女中から聞いた医者が、浄瑠璃に脚色したのが「加賀見山旧錦絵」と云われ、戦時中にはさらに「鏡山競艶録」という題で映画化もされました。
私もビデオでこの映画を観たことがありますが、容貌という点で、お初より敵役岩藤の女優(鈴木澄子)のほうに軍配を挙げたと、いう余談もそこそこに、旧道へ戻ります。
平塚宿は道中記に「特徴のない」と記された約1.1㎞の宿場で、その雰囲気は現在も変わりがないようです。
↑写真左手の神奈川銀行が旧本陣跡、平面的な街並みだから「“平”塚」なのかしら、と下手な皮肉を考えているうち、平塚市民センター前の江戸見附跡に。
江戸側の宿場出入口だったここには、片側だけ往年の見附が復元されています。
その傍らの案内板には、明治十四年に外国人写真技師が撮影した、当時はまだ残っていた見附の様子が見られます。
宿場から外れた途端に道が繁華になるのはなんとも皮肉で、
これは宿場の東外れに開業した東海道線の平塚駅前に、街の中心を持って行かれた結果です。
この繁華街の裏手にある紅谷町公園には、「お菊塚」と彫られた石碑が遺っています。
怪談で有名な「番町皿屋敷」のお菊のお墓とされ、手討ちになったお菊はここにあった寺に葬られましたが、寺の移転後は公園となったここに、塚として遺されたもの。
しかしそれを伝える史跡案内板などはなく、またこの一帯は夜の歓楽街とあってか塚に気が付く人もなく、うらぶれた風体の人がぼんやりと佇むこの公園の片隅に、小さな塚だけがポツンと遺された有様は、浮世の無情を思わずにはいられません。