二日目の最後のプログラムは、十六時から三十分くらいの、地元コーラスグループによる合唱、それが済むまでは舞台袖の大道具を片付けられないので、わたしたちは先に楽屋の要らない物を片付けてトラックに積み込んで、それが済んでから舞台化粧落として、イベント終了まで待機することになりました。
ここの文化会館の地下には、劇場並みに男女別の楽屋風呂があって、わたしも一番最後に入るつもりで、誰もいない楽屋で一人待っていると、先にお風呂に入っていた杏子さんが戻って来て、
「あ、ハルちゃん丁度いいところにいてくれたわ。あのさ、さっきの片付けで、チャバコをいくつも上げ下ろししてたら、なーんか腰の様子がアヤシくなっちゃってさ。だから看護婦サンしてちょうだいよ…」
なんて言い出したんです。
「はい…」
わたしはチラッと壁の時計を見ました。
自分もこれからお風呂に入りたいんだけど、時間あるかなぁ…。
杏子さんがわたしを常に傍近くにおいていたことは既にお話しした通りですけど、実際、ゆくゆくは自分の“弟子”みたいにするつもりがあったようで、すっかりセンセイ気取りで手取り足取り演技や舞踊―らしきモノ―を教えていました。
舞踊はともかく、演技を教えてくれることは有り難かったです。
でも、わたしがなんでもハイハイと聞くのをいいことに、プライベートでまでわたしを使うのには閉口しました。
そのいい例がこの『看護婦サン』で、終演後の晩とか、旅館の自分の部屋にメールで呼び出して、腰を揉めだの脚をさすれだの、湿布が背中に届かないから代わりに貼ってくれだの、ある時は荷物整理を手伝え、ヒドい時には『窓を開けたらヘンな虫が飛んできたから退治して』など、殆ど付き人、って言うか、便利屋みたいにしてわたしを使っていました。
そりゃ、ウザいオバサンだと思ってましたよ。
でも、その時のわたしは先日もお話しした通り、実際に劇団員になってもいいと思っていましたし、座員になったら下っ端になるのだから、これは当然のこと、と受け止めるようにしていました。
ですけど、この時のわたしはもう気持ちが違います。
わたしはなるべく無感情に喋るようにしました。
「わたしがお風呂に入ってからじゃ、ダメですかね?」
高島陽也の微妙な口調の変化に、杏子さんは眉間に一瞬、不審の色を浮かべました。
「…アタシ、今やって、って言ってるのよ。看護婦サンはハルちゃんの大事な役目なんだから」
誰が決めた、と言ってやりたいのをグッと堪えて、
「じゃ、始めます」
「……」
杏子さんは黙ってわたしを見詰めました。
ナニその態度って訊いてくるかと思いました。
しかし。
「…飛鳥姓のことは、ワタシの言い出すタイミングが悪かっただけ。大丈夫、アタシが改めて座長に掛け合うから…」
わたしは内心で吹き出しました。
まだそんなことを…。
所詮この人は、ちっちゃい世界で息をしている人種だ…。
「いいんですよ…」
わたしは杏子さんに調子を合わせて、今度はショボンとした感じを出してみました。
「アタシと座長とはね、お互い古い付き合いで、何でも言えるの。ね、アタシ、飛鳥武流とはそう云う関係だから。任しときなさい」
そうかしら?
少なくとも座長は、そうは思っていないみたいですけど…。
「で、マッサージ、ですよね?」
「…あ、そうそう。お願いね」
杏子さんは楽屋の座布団をマットのように並べると、そこにうつ伏せに寝転がりました。
わたしが杏子さんに跨って、両手の親指で腰を押し始めると、杏子さんはいきなり、
「ハルちゃんさ、アンタが客席でコケた時、サッと近付いて来た若いオトコがいたでしょ。ああ云うのには気を付けなきゃダメなのよ…」
「はぁ…」
わたしの脳裏に、あの青年の端麗な面差しが映し出されました。
「前にも言ったハズだけど、大衆演劇を見に来る人なんて、みーんなレベル低いワケ。今日アンタに造花の花束渡したオバサン見たってわかるじゃない。普通じゃ有り得ないわよ、造花の花束をよこすなんて。でさ、ああやって役者に近付いて来る人ってのは、ナニか心にビョーキって云うのかしら…、こう、心が満たされない闇みたいなのを持っていて、それを解消したくて、ああいう行動をとるの…」
「……」
「アタシたちは慣れてるから、そういう人も巧く利用したりしてあしらえるけど、ハルちゃんはまだ田舎から出て来たばかりの十九歳で何も知らないから、ああいうのに出喰わすと、つい嬉しくなってフラフラとなりやすいんだけど、向こうはそこが狙い目なのよ」
「……」
「要するに、“青田狩り”ってやつね。行く先々にしつこく付きまとったりしてさ。殆どストーカーよ。ホントに気持ち悪いったらありゃしないんだから…」
「はあ…」
それくらいの事はわたしだって知ってますよ。
わたしが在籍していたあんなエキストラ事務所みたいなとこの女性タレントですら、そう云うテのがいて困ってたくらいですもの。
「それにさっきみたいな、若くてイイイ男は要注意よ。ああいうルックスのいいオトコってのはまず、ヤリマンって相場が決まってんだから」
「そうなんですか?」
「そうよ、ばっかねぇ…!」
杏子さんは首をこちらへねじ曲げると、
「ハルちゃんなんて見るからに純真そうだし、顔だって可愛いし、カラダのラインだってキレイだし…」
何だかセクハラみたく聞こえるのは、気のせい?
「…向こうからすりゃ、いいカモなのよ。人気商売は、基本的に断れない立場なんだから」
何だか話しが、だんだんと違う方向へ逸れて行きだしたのを感じました。
杏子さんは高島陽也がオトコに喰われるのをヒドく心配している、と云うより、恐れている、という感じがしました。
アンタの方が、よっぽど心に闇を持っているような…。
「そこに付け込まれて、そんな盛りのついたイヌみたになのにヤリ倒されて、それで…」
「杏子さん…!」
これ以上、わたしは杏子さんの口から、そういう話しは聞きたくありませんでした。
って言うか、わたしは彼女のシモ系の話しが、大嫌いでした。
シモネタって、かなりビニョーな性質があるじゃないですか。
カラッと笑い飛ばせるタイプの人と、そうでないタイプの人と。
この人の場合は典型的な後者で、何だかやたら生々しくて聞こえて、気持ち悪くなってくるんです。
しかもそれを食事中でも平気で口に口にしたりするので、いつだったか座長に、「お前、一座クビにすっぞ!」ってマジ切れされてましたっけ…。
「わかりました、これからは気を付けますから…!」
もしわたしが「必殺仕事人」のメンバーだったら、間違いなくこの場でオバサンの腰骨をボキボキッ! でしたね。
それにわたしには、あの青年がそんなヤリマンとは思えませんでした。
そんなのわたしだって、見ればすぐに判りますよ、高校の時のクラスに、そういう男子がいましたから。
それに、ほんの僅かな間のやり取りでしたけど、青年のあの綺麗さは、うわべだけではない、もっと深いところからのもののように感じられたんです。
「ならいいけど…」
杏子さんは何だかつまらなさそうに、顔を枕に埋めました。
わたしは、いい加減にこの辺で話題を変えなきゃ、と思っていると、
「ホントにオトコなんて魔物よ。アタシはそれで、何度泣かされたことか…」
「そうなんですか」
「そうよォ…」
杏子さんはハア~ッと溜め息をついて、
「アタシの娘もそう。バカなオトコに引っかかってさ…」
初めて聞く話しでした。
「杏子さん、娘さんがいらっしゃるんですか?」
「そう。二十年くらい前にさ、京都の撮影所で知り合った照明係の男と結婚してさ、そん時にできたコ…」
でも夫の浮気が原因ですぐ離婚して…。
「娘は当然アタシが引き取ったんだけど、あのコ、十九の時にミュージシャン志望だとか云うオトコと駆け落ちしてそのまんま行方知れず…」
以来十年、音沙汰無し。
…と、ここまでは、生田杏子さんにもいくらかは同情票が集まりそうなエピソードでしょ?
でもオバサン、ここから蹴躓くんです。
「だからさ、十九歳の女の子を見ると、どうしても他人とは思えなくて。だいたいさ、アタシたち役者に近付いてくるオトコに、下心の無いヤツなんていないんだから。さっきのオトコにしたって、どうせパンツんなかじゃアソコおっ立てて…」
わたしは腹の底から熱いものがムラムラとこみ上げてくるのを感じて、手を止めました。
実際、これ以上続けたらヤバいことをしでかしそうでした。
もう、やめろ…。
「杏子さん、あの人に失礼ですよ…」
「そこがアンタの、まだ若いとこよ」
苦笑いする杏子さんの口振りが、わたしの感情に更に火をつけました。
「アタシはね、ハルちゃんに早智子…アタシの娘の二の舞になってほしくないから言ってるのよ。あの子は女優として最高の素質を持っていた。なのに、あんなヤクザなオトコと一緒になる方を選んでしまった。アタシは、それが今でも悔やまれるの。アタシの傍にさえいれば、今頃はきっと、飛鳥琴音なんかをはるかに凌ぐ花形看板に成長していたはずなのに…」
琴音さんの名前が出た時、わたしはふと思いました。
この人が心のなかでいつも見ているのは…。
そして、いつか座長が、「まるでホントの母娘みたいだな」と言った時の目の表情…。
「アタシはね、早智子がいなくなった時に思い知らされたの。あの子への愛が足りなかったからだ、って…」
「それで、自分の娘の代わりになる人を探していたわけですか」
この一言は、わたしが予想していた以上に、杏子さんへ衝撃を与えたようでした。
目を見開いて、口を少し開けた表情は、自分でも意識していなかった心の奥底を、言葉と云う目に見えない形でハッキリと突きつけられた、そんな印象でした。
「…そういうことですよね」
杏子さんがわたしをこの旅芝居に引っ張り込んだのも、付き人同然にいつも傍において、技芸・雑用などなど教え込んだのも、なにもかも…。
この人は、十九歳の高島陽也を通して、十九歳で自分の前から姿を消した、自分の娘の姿を偲んでいるに過ぎない―他人の十九歳に、“おもかげ”を探し求めているだけなんだ…。
この人は、高島陽也(わたし)を見てはいない…!
わたしは、ひどい裏切りに遭ったような、そして落胆と怒りがゴチャ混ぜになった、やるせない思いが込み上げてきました。
杏子さんは起き上がると、わたしの両腕を痛いくらいに掴みました。
「ハルちゃんお願い。アタシのそばにいてちょうだい。アタシから離れて行かないでぇ…!」
そして、いきなり涙をボロボロこぼして、わたしに縋りつこうとしました。
劇団ASUKAのベテラン女優でもなんでもない、過去の悲運に酔ったタダの愚痴っぽい中年女性と化したその姿は、わたしへ徒らに浅ましさを与えるばかり、わたしは腕を振り払うと、
「あなたの過去で、わたしを縛らないでください」
と静かに、でもはっきりそう言って、座布団に突っ伏してワンワン泣く杏子さんを背中に、わたしは楽屋を出ようとして、ふと思い付き、
「杏子さん…」
と彼女の耳元に口を近付けて、
「大丈夫、オトコに喰われるようなヘマはしないわ。あたしこう見えても経験済みだからさ、中一ン時に…」
ガバッと顔を上げた時の、杏子さんの表情といったら!
まさに、トドメの一発を喰らった、って感じでした。
〈続〉
ここの文化会館の地下には、劇場並みに男女別の楽屋風呂があって、わたしも一番最後に入るつもりで、誰もいない楽屋で一人待っていると、先にお風呂に入っていた杏子さんが戻って来て、
「あ、ハルちゃん丁度いいところにいてくれたわ。あのさ、さっきの片付けで、チャバコをいくつも上げ下ろししてたら、なーんか腰の様子がアヤシくなっちゃってさ。だから看護婦サンしてちょうだいよ…」
なんて言い出したんです。
「はい…」
わたしはチラッと壁の時計を見ました。
自分もこれからお風呂に入りたいんだけど、時間あるかなぁ…。
杏子さんがわたしを常に傍近くにおいていたことは既にお話しした通りですけど、実際、ゆくゆくは自分の“弟子”みたいにするつもりがあったようで、すっかりセンセイ気取りで手取り足取り演技や舞踊―らしきモノ―を教えていました。
舞踊はともかく、演技を教えてくれることは有り難かったです。
でも、わたしがなんでもハイハイと聞くのをいいことに、プライベートでまでわたしを使うのには閉口しました。
そのいい例がこの『看護婦サン』で、終演後の晩とか、旅館の自分の部屋にメールで呼び出して、腰を揉めだの脚をさすれだの、湿布が背中に届かないから代わりに貼ってくれだの、ある時は荷物整理を手伝え、ヒドい時には『窓を開けたらヘンな虫が飛んできたから退治して』など、殆ど付き人、って言うか、便利屋みたいにしてわたしを使っていました。
そりゃ、ウザいオバサンだと思ってましたよ。
でも、その時のわたしは先日もお話しした通り、実際に劇団員になってもいいと思っていましたし、座員になったら下っ端になるのだから、これは当然のこと、と受け止めるようにしていました。
ですけど、この時のわたしはもう気持ちが違います。
わたしはなるべく無感情に喋るようにしました。
「わたしがお風呂に入ってからじゃ、ダメですかね?」
高島陽也の微妙な口調の変化に、杏子さんは眉間に一瞬、不審の色を浮かべました。
「…アタシ、今やって、って言ってるのよ。看護婦サンはハルちゃんの大事な役目なんだから」
誰が決めた、と言ってやりたいのをグッと堪えて、
「じゃ、始めます」
「……」
杏子さんは黙ってわたしを見詰めました。
ナニその態度って訊いてくるかと思いました。
しかし。
「…飛鳥姓のことは、ワタシの言い出すタイミングが悪かっただけ。大丈夫、アタシが改めて座長に掛け合うから…」
わたしは内心で吹き出しました。
まだそんなことを…。
所詮この人は、ちっちゃい世界で息をしている人種だ…。
「いいんですよ…」
わたしは杏子さんに調子を合わせて、今度はショボンとした感じを出してみました。
「アタシと座長とはね、お互い古い付き合いで、何でも言えるの。ね、アタシ、飛鳥武流とはそう云う関係だから。任しときなさい」
そうかしら?
少なくとも座長は、そうは思っていないみたいですけど…。
「で、マッサージ、ですよね?」
「…あ、そうそう。お願いね」
杏子さんは楽屋の座布団をマットのように並べると、そこにうつ伏せに寝転がりました。
わたしが杏子さんに跨って、両手の親指で腰を押し始めると、杏子さんはいきなり、
「ハルちゃんさ、アンタが客席でコケた時、サッと近付いて来た若いオトコがいたでしょ。ああ云うのには気を付けなきゃダメなのよ…」
「はぁ…」
わたしの脳裏に、あの青年の端麗な面差しが映し出されました。
「前にも言ったハズだけど、大衆演劇を見に来る人なんて、みーんなレベル低いワケ。今日アンタに造花の花束渡したオバサン見たってわかるじゃない。普通じゃ有り得ないわよ、造花の花束をよこすなんて。でさ、ああやって役者に近付いて来る人ってのは、ナニか心にビョーキって云うのかしら…、こう、心が満たされない闇みたいなのを持っていて、それを解消したくて、ああいう行動をとるの…」
「……」
「アタシたちは慣れてるから、そういう人も巧く利用したりしてあしらえるけど、ハルちゃんはまだ田舎から出て来たばかりの十九歳で何も知らないから、ああいうのに出喰わすと、つい嬉しくなってフラフラとなりやすいんだけど、向こうはそこが狙い目なのよ」
「……」
「要するに、“青田狩り”ってやつね。行く先々にしつこく付きまとったりしてさ。殆どストーカーよ。ホントに気持ち悪いったらありゃしないんだから…」
「はあ…」
それくらいの事はわたしだって知ってますよ。
わたしが在籍していたあんなエキストラ事務所みたいなとこの女性タレントですら、そう云うテのがいて困ってたくらいですもの。
「それにさっきみたいな、若くてイイイ男は要注意よ。ああいうルックスのいいオトコってのはまず、ヤリマンって相場が決まってんだから」
「そうなんですか?」
「そうよ、ばっかねぇ…!」
杏子さんは首をこちらへねじ曲げると、
「ハルちゃんなんて見るからに純真そうだし、顔だって可愛いし、カラダのラインだってキレイだし…」
何だかセクハラみたく聞こえるのは、気のせい?
「…向こうからすりゃ、いいカモなのよ。人気商売は、基本的に断れない立場なんだから」
何だか話しが、だんだんと違う方向へ逸れて行きだしたのを感じました。
杏子さんは高島陽也がオトコに喰われるのをヒドく心配している、と云うより、恐れている、という感じがしました。
アンタの方が、よっぽど心に闇を持っているような…。
「そこに付け込まれて、そんな盛りのついたイヌみたになのにヤリ倒されて、それで…」
「杏子さん…!」
これ以上、わたしは杏子さんの口から、そういう話しは聞きたくありませんでした。
って言うか、わたしは彼女のシモ系の話しが、大嫌いでした。
シモネタって、かなりビニョーな性質があるじゃないですか。
カラッと笑い飛ばせるタイプの人と、そうでないタイプの人と。
この人の場合は典型的な後者で、何だかやたら生々しくて聞こえて、気持ち悪くなってくるんです。
しかもそれを食事中でも平気で口に口にしたりするので、いつだったか座長に、「お前、一座クビにすっぞ!」ってマジ切れされてましたっけ…。
「わかりました、これからは気を付けますから…!」
もしわたしが「必殺仕事人」のメンバーだったら、間違いなくこの場でオバサンの腰骨をボキボキッ! でしたね。
それにわたしには、あの青年がそんなヤリマンとは思えませんでした。
そんなのわたしだって、見ればすぐに判りますよ、高校の時のクラスに、そういう男子がいましたから。
それに、ほんの僅かな間のやり取りでしたけど、青年のあの綺麗さは、うわべだけではない、もっと深いところからのもののように感じられたんです。
「ならいいけど…」
杏子さんは何だかつまらなさそうに、顔を枕に埋めました。
わたしは、いい加減にこの辺で話題を変えなきゃ、と思っていると、
「ホントにオトコなんて魔物よ。アタシはそれで、何度泣かされたことか…」
「そうなんですか」
「そうよォ…」
杏子さんはハア~ッと溜め息をついて、
「アタシの娘もそう。バカなオトコに引っかかってさ…」
初めて聞く話しでした。
「杏子さん、娘さんがいらっしゃるんですか?」
「そう。二十年くらい前にさ、京都の撮影所で知り合った照明係の男と結婚してさ、そん時にできたコ…」
でも夫の浮気が原因ですぐ離婚して…。
「娘は当然アタシが引き取ったんだけど、あのコ、十九の時にミュージシャン志望だとか云うオトコと駆け落ちしてそのまんま行方知れず…」
以来十年、音沙汰無し。
…と、ここまでは、生田杏子さんにもいくらかは同情票が集まりそうなエピソードでしょ?
でもオバサン、ここから蹴躓くんです。
「だからさ、十九歳の女の子を見ると、どうしても他人とは思えなくて。だいたいさ、アタシたち役者に近付いてくるオトコに、下心の無いヤツなんていないんだから。さっきのオトコにしたって、どうせパンツんなかじゃアソコおっ立てて…」
わたしは腹の底から熱いものがムラムラとこみ上げてくるのを感じて、手を止めました。
実際、これ以上続けたらヤバいことをしでかしそうでした。
もう、やめろ…。
「杏子さん、あの人に失礼ですよ…」
「そこがアンタの、まだ若いとこよ」
苦笑いする杏子さんの口振りが、わたしの感情に更に火をつけました。
「アタシはね、ハルちゃんに早智子…アタシの娘の二の舞になってほしくないから言ってるのよ。あの子は女優として最高の素質を持っていた。なのに、あんなヤクザなオトコと一緒になる方を選んでしまった。アタシは、それが今でも悔やまれるの。アタシの傍にさえいれば、今頃はきっと、飛鳥琴音なんかをはるかに凌ぐ花形看板に成長していたはずなのに…」
琴音さんの名前が出た時、わたしはふと思いました。
この人が心のなかでいつも見ているのは…。
そして、いつか座長が、「まるでホントの母娘みたいだな」と言った時の目の表情…。
「アタシはね、早智子がいなくなった時に思い知らされたの。あの子への愛が足りなかったからだ、って…」
「それで、自分の娘の代わりになる人を探していたわけですか」
この一言は、わたしが予想していた以上に、杏子さんへ衝撃を与えたようでした。
目を見開いて、口を少し開けた表情は、自分でも意識していなかった心の奥底を、言葉と云う目に見えない形でハッキリと突きつけられた、そんな印象でした。
「…そういうことですよね」
杏子さんがわたしをこの旅芝居に引っ張り込んだのも、付き人同然にいつも傍において、技芸・雑用などなど教え込んだのも、なにもかも…。
この人は、十九歳の高島陽也を通して、十九歳で自分の前から姿を消した、自分の娘の姿を偲んでいるに過ぎない―他人の十九歳に、“おもかげ”を探し求めているだけなんだ…。
この人は、高島陽也(わたし)を見てはいない…!
わたしは、ひどい裏切りに遭ったような、そして落胆と怒りがゴチャ混ぜになった、やるせない思いが込み上げてきました。
杏子さんは起き上がると、わたしの両腕を痛いくらいに掴みました。
「ハルちゃんお願い。アタシのそばにいてちょうだい。アタシから離れて行かないでぇ…!」
そして、いきなり涙をボロボロこぼして、わたしに縋りつこうとしました。
劇団ASUKAのベテラン女優でもなんでもない、過去の悲運に酔ったタダの愚痴っぽい中年女性と化したその姿は、わたしへ徒らに浅ましさを与えるばかり、わたしは腕を振り払うと、
「あなたの過去で、わたしを縛らないでください」
と静かに、でもはっきりそう言って、座布団に突っ伏してワンワン泣く杏子さんを背中に、わたしは楽屋を出ようとして、ふと思い付き、
「杏子さん…」
と彼女の耳元に口を近付けて、
「大丈夫、オトコに喰われるようなヘマはしないわ。あたしこう見えても経験済みだからさ、中一ン時に…」
ガバッと顔を上げた時の、杏子さんの表情といったら!
まさに、トドメの一発を喰らった、って感じでした。
〈続〉