国立公文書館で、春の特別展「江戸時代の天皇」を見る。
江戸前期の徳川和子(とくがわ まさこ)入内から、後期に即位した現天皇家の祖、光格天皇の時代までを、当時の公家日記や、視覚資料として緻密に描写された絵巻物より通覧する。
江戸時代前期、法令(法度)で威圧する“関東代官”徳川幕府との対立は、後水尾天皇の突然の譲位といふ大事件によって、ひとつの山場を迎へる。
この一大決行は側近の公家たちにすら事前に知らされてゐなかったらしく、今回展示された西洞院時慶の日記に綴られた「誰モ無知」「各驚斗」に、その時の驚愕ぶり、狼狽ぶり、そして緊迫ぶりが、その落ち着いた字体の奥からはっきりと読み取れて、興味深い。
時を経て、霊元天皇の御代になると一転、幕府との協調路線をとるやうになり、過去の長い戦乱によって廃絶してゐた「朝議再興」に心血を注ぐやうになる。
しかし、当然それらは、タダでは出来なゐ。
……だから天皇(朝廷)は、幕府との協調を目論んだのである。
このとき朝廷は、武器を持たずして“時代”と戦ふ術(すべ)を、身に付けたと言へるのではないか。
そしてさらに言えば、この時代(とき)に、上方落語の「京の茶漬」に象徴されるやうな、“口と腹は別”といふ京都人の印象が、培はれたやうな気がする……。
さて、もふひとつ興味深かったのは、当時の“天皇さん”と庶民とは、案外親しい関係にあった、と云ふことだ。
事実、いくつかの宮中行事におゐては、民衆は進行の邪魔さえしなければ、御所の庭に入って自由に見物することが許されており、それは当時の絵巻物などからも確認されてゐる。
ときには、“天皇さん”のお姿を拝することも出来たといふから、“人切り包丁”をチラつかせて威張り散らすサムライの親玉と、かうした平面線で繋がってゐる“天皇さん”と、民衆はどちらに親しみを覚えるか──
また、かうした宮中行事に参内する公家たちを路上に座って見物し、ときには聲をかけたりするのも、民衆たちの楽しみの一つだったらしい。
(※フラッシュを焚かなければ撮影可)
来月からの新元号に込められてゐるとされる「萬民平和」など、すでに江戸時代の“天皇さん”たちと民衆たちが、実現させてゐたのである。
まわりに堀を巡らした石垣の上から、高々と睨みを効かせてゐた武家に対して、庶民と同じ土の上の御所におはす“天皇さん”は、ときには民衆たちの祈願の対象ともなり、天明七年(1787年)に大流行した「天明の御所千度参り」は、いかに“天皇さん”が民衆の潜在的な心の支へであったかを示す、象徴的な出来事と私は考へる。
そして、千度参りを止めさせやうとする京都所司代(幕府)に対し、“國母”であった後櫻町上皇が、「信仰からくるものなのだから」と、そのままにさせたところに、天皇家と民衆との紐帯の強さを感じる。
特別展の締めには特別展示として、かの『平成』の書と、
新元号のタネとなった「萬葉集」の、件の箇所が展示されてゐる。
これら二点を眺めてゐても、私にはどふも今度の退位と即位が、浮世の『春の人事異動』と、大差ないものに映ってしまふ。
つまり、御代が変はるといふ実感が沸かないのだ。
この特別展に登場する“天皇さん”たちは室町時より続ひた伏見宮の皇統であったが、光格天皇からは江戸時代に創設された閑院宮の系統と、流れが横滑りしてゐる。
要するに、江戸時代の“天皇さん”とは連続していないことが原因なのか、
それとも……。