世田谷区上野毛の五島美術館にて、春の優品展「和と漢へのまなざし」を見る。
“大東急”の実質的創業者であり、“強盗慶太”と異名をとるほどの強烈な個性を発揮した五島慶太は、私が敬愛する人物のひとり。
語呂の響きの面白さと敬慕を込めて、敢ゑて「強盗慶太」と呼ばせてもらってゐる五島慶太氏の蒐集品より、今回は歌仙や能書家たちの作品を鑑賞する。
……といっても、そこに墨書されてゐるものの意味や価値は、さっぱりわからない。
(※案内チラシより)
展示品の作者名は、ほぼ「伝」の但し書き付きで、真贋といふ意味におゐては、甚だ心許ないことだけは、理解できる。
なぜ、字がわからないのか?
それは、読まうとするからである。
つまり、初めから知識が無くてわからないものを、無理にわからうとするのが、そもそもの間違ひなのである。
もとの言葉を知らなゐくせに「能楽の謡は何を言ってゐるのかわからん!」と怒ってゐる知恵足らずと、同じことなのだ。
そんな訳のわからない作品を、訳のわからないなりに楽しむ方法の手がかりが、歌仙の絵像に代表歌や略歴を添へた、「歌仙絵」にありける。
(※記念絵はがきより)
それは、書を絵像と同じ“絵柄”として、一纏めに見るのである。
要するに、文字を“文様”と、捉へるのである。
さらに一歩下がって、表装もろとも一つの絵画だと思って見ると、なんとなく、雅びな薫りが漂ってくる。
「読んではいけない、見て、感じるのだ……!」
わからないことを、無理にわからうとする必要はない。
おのれのわかる範囲内で楽しみ方を見つけることも、また大事なお勉強なり。
……ところがこの捉へ方は、私が初めてといふわけでもないらしい。
古への能書の断簡を貼り合はせた鴻池家旧蔵の「手鑑」に、すでにその趣きが窺へるのである。
しかし、そんなことはだうでもよい。
この優品展は前から気になってゐたもので、今日は思ひ切って出かけたものであるが、それはかういふご縁を取り結ばんと、“強盗慶太”翁が招ひてくれたからと、信じてゐるからだ。