迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

伝、伝、伝を、装飾する。

2019-04-14 20:37:53 | 浮世見聞記



世田谷区上野毛の五島美術館にて、春の優品展「和と漢へのまなざし」を見る。


“大東急”の実質的創業者であり、“強盗慶太”と異名をとるほどの強烈な個性を発揮した五島慶太は、私が敬愛する人物のひとり。

語呂の響きの面白さと敬慕を込めて、敢ゑて「強盗慶太」と呼ばせてもらってゐる五島慶太氏の蒐集品より、今回は歌仙や能書家たちの作品を鑑賞する。


……といっても、そこに墨書されてゐるものの意味や価値は、さっぱりわからない。



(※案内チラシより)


展示品の作者名は、ほぼ「伝」の但し書き付きで、真贋といふ意味におゐては、甚だ心許ないことだけは、理解できる。


なぜ、字がわからないのか?


それは、読まうとするからである。


つまり、初めから知識が無くてわからないものを、無理にわからうとするのが、そもそもの間違ひなのである。


もとの言葉を知らなゐくせに「能楽の謡は何を言ってゐるのかわからん!」と怒ってゐる知恵足らずと、同じことなのだ。


そんな訳のわからない作品を、訳のわからないなりに楽しむ方法の手がかりが、歌仙の絵像に代表歌や略歴を添へた、「歌仙絵」にありける。



(※記念絵はがきより)


それは、書を絵像と同じ“絵柄”として、一纏めに見るのである。


要するに、文字を“文様”と、捉へるのである。


さらに一歩下がって、表装もろとも一つの絵画だと思って見ると、なんとなく、雅びな薫りが漂ってくる。


「読んではいけない、見て、感じるのだ……!」


わからないことを、無理にわからうとする必要はない。

おのれのわかる範囲内で楽しみ方を見つけることも、また大事なお勉強なり。



……ところがこの捉へ方は、私が初めてといふわけでもないらしい。


古への能書の断簡を貼り合はせた鴻池家旧蔵の「手鑑」に、すでにその趣きが窺へるのである。


しかし、そんなことはだうでもよい。



この優品展は前から気になってゐたもので、今日は思ひ切って出かけたものであるが、それはかういふご縁を取り結ばんと、“強盗慶太”翁が招ひてくれたからと、信じてゐるからだ。





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