ラジオで、大藏流狂言方の初世善竹彌五郎の藝を懐古する番組が放送される。
現在では大藏流狂言方として、関西を拠點に業界の一角を占める善竹家の開祖であり、長らく斷絶してゐた大藏流宗家を再興させた功勞者であり、狂言方として初めて人間國寶となった人物だが、私が生まれるずっと以前に亡くなってゐるので舞臺は當然觀たことがなく、残された音源を通して知るのみ。
七十八世宗家金春八條(光太郎)が忌避するほどの寛闊にして、しかし藝に對しては前時代な厳格ぶりなど、その人柄については金春八條の子息で七十九世宗家の金春信高が綴った「善竹弥五郎」の一文に、簡潔にまとめられてゐる。
もともとは茂山久治と云ったが、長らく斷絶してゐる大藏流宗家の權利を預かってゐた金春流七十八世宗家より、その卓越した技量を認められて“彌五郎”の藝名を與へられ茂山彌五郎となり、さらにはそれまでの“茂山”姓を捨てて“善竹”姓と改めることを望み、そのために金春流宗家より賜姓と云ふ形を半ば強引に取り付けるなど、いかにも藝能者ならではの狡智に富んだ一面も持ち合はせてゐたらしい。
それを文中にそこはかとなく描冩してみせる金春信高師の筆力もまた、名文家の人らしい冴えを見せる。
若くして七十九世金春流宗家となった金春信高師より、昭和三十八年十月に『善竹(よしたけ)』姓の授與されると、今度は“ゼンチク”と讀み替へたいと云ひ出し、挙げ句に改名披露公演の番組には彌五郎本人ばかりか彼の一族すべてが善竹(ぜんちく)姓を名乗ってゐるので、話しが違ふと金春信高師が本人に問ひ糾さうとすれど、樂屋の祝賀的雰囲氣に呑まれてつひに黙認同然となったのも、日頃「御宗家、御宗家」と煽て上げながら、結局はその年若な宗家を籠絡した老猾さと私は見て取る。
善竹家の創始については、戰後に業界内で破門騒動を引き起こすほどの革新的な活動を展開してゐた當時の若手茂山七五三(四世茂山千作)と二世茂山千之丞たちを快く思っておらず、同じ茂山でゐたくないとの氣持ちがあったやうだが、自身が二世茂山忠三郎の後妻の連れ子で茂山の血筋でないと云ふ出身にも、やはり心の奥底で屈託があったからではないか。
現在は初孫が善竹彌五郎の二世を名乗っており、私もラジオ放送とTVの舞臺中繼で觀てゐるが、ヤマ場の無い平板な演技で、これのどこを觀るべきなのか、またなぜこの狂言方が二世なのか、共々不明である。
初世善竹彌五郎の子息はすべてが狂言方となり、五男の家系は東京に拠點において現在の善竹十郎家となる。
私のやうな東京者が東京で觀る善竹家の狂言と云へば、まずこの十郎一門であり、その後繼となるはずだったのが、令和二年に人災疫病のため惜しくも四十一歳の若さで急逝した、善竹富太郎師である。
それが私にとってもいかに大痛恨事だったかは、すでに何度も述べてゐるのでまう繰り返さない。
先日にお臺場へ回顧展を觀に行った志村けんさん云ひ、今年は人災疫病のために亡くなった著名人を偲ぶ機會を得る夏となった。
何事も、「三年一区切り」と云ふ。
この人災疫病禍も三年目。
すっかり狎れきって不感的になったとも映るこの時世下で、改めてあの日々を振り返れ、と云ふ聲なのだと私は反省する。