おはようございます。
昨日は最後に、劇団メンバーのことを話したんでしたね。
では話しを、舞踊ショーのことに戻して…。
わたしが舞踊ショーに出たのは、二日目の福島県郡山での公演からです。
郡山駅前に大きなホテルがあって、そこの大宴会ホールのステージで、慰安旅行の団体客相手の貸切公演でした。
例の如く、昼過ぎに現地入りしてから座長の“口立て”があって、その時に
「今日から高島さんも舞踊ショーに入ってもらう。杏子さん、とりあえずこのコと五分、埋めてくれ」
要するに、男役から女役への扮装替えの間をつないでくれ、という意味です。
曲は杏子さんが手持ちのMDのなかから、聴いたこともないようなド演歌モノを手渡して、
「とりあえず曲だけ聴いといて。振りは、本番でアタシのを見ながらついてきてくれればいいから…」
こんな調子なんで、舞台に出る直前まで不安でしたよ。
…でも実際、そんな程度で済むような超簡単な振りで―基本的に、広げた扇を手に舞台を大回りするだけ―結局気分でやってるだけなんだなぁ、って改めて思いました。
こんな程度のモノでいいのかしら、と踊りながらお客の反応が気になったんですけど、なんだかやたら大ウケで、後ろの席にいたオジサンが缶ビール二本を手にやって来て、舞台の前に差し入れみたいな感じで置いていったり、…そうそう、この時初めて、わたしも祝儀(オヒネリ)を頂戴しましたよ。
曲が終わった時に、最前列にいたオジサンが急に立ち上がって舞台に身を乗り出したんで、ナニする気だろうと思っていると、杏子さんが心得たように、オジサンの目の前に出て胸を突き出したんです。
するとオジサン、剥き出しのままの一万円札を衣裳の襟元に差し込んで、わたしの方へも手招きしました。
杏子さんも目で合図を送るので、わたしも同じように前へ出ると、襟元に一万円札が差し込まれたんですけど、その時の手付きが明らかに、胸元を触るような感じだったので、わっ…と思っていると、舞台袖に引っ込むなり杏子さんに、「それ、おサワリ料ってコトね」となんて言われて、「わたしはフーゾク嬢かよ…!」って、ここでも強いショックを味合わされました。
その時の一万円札ですか?
汚らしいワと、よっぽど棄てようかと思ったんですけど、よく考えたら別にお金に罪はないわけだし、その代わりに何か良い事に使えばいいかと、思い留まりました。
まぁそんなわけで、この旅芝居一座では様々な“洗礼”を受けて、そのたびにこの一座への嫌悪感を抱く一方で、ロクに稽古もしないで幕を開ける、行き当たりばったりな芝居を演じる日々は、舞台度胸がついた、と云う意味では、けっこう鍛えられました。
劇団ASUKAの人々も、東北地方を旅公演しているうちに、だんだんとわたしを受け入れるようになって、稽古不足は気になるものの、どこへ行ってもお客が喜んで手を叩いて、オヒネリを飛ばしてくれるのを目にしているうちに、次第に「あ、これでいいのなら、何とかやっといけるかも…」と思えるようになって…。
モノになり損ねたと云う似たり寄ったりの経歴と、僻みっぽい考え方を持つ少人数の集団とだけ四六時中行動を共にしているうちに、わたしもどんどん周りが見えなくなってきて、まだ何もモノを知らないが故に、少しずつ彼らのカラーに染まっていきだした、というんでしょうかね…。
今思えば、本当に怖いことですよ。
大衆演劇のやり方に呆気にとられっぱなしだったその二週間後には、わたしも彼らのやり方を何の疑問もなく受け入れつつあったんですから。
全く異常でした。
劇団に溶け込みつつあるわたしを一番喜んだのは、やはり生田杏子さんでした。
杏子さんはわたしを常に傍において、まるで実の娘のように扱っていました。
ある時座長が、「何だかホントの母娘みたいだな」って言ったくらいですもの。
…でもね、かつてのわたしだったら、その時の座長の“目”の表情に、何か読み取るべきものがある事に、すぐ気付いた筈なんです。
でも、“洗脳”されつつあった高島陽也に、そんな知力はありませんでした。
それよりも、
「ハルちゃん―その頃にはわたしは、皆からそう呼ばれていました―、いっそウチの座員になっちゃいなさいよ。ここにいれば必ず舞台に立てるわけだし、第一、現場で演技を磨けるのよ。東京なんかでさ、オーディションに落ちてばかりでロクに現場にも出られなくて、アルバイトばっかのムダな日々を送ってるより、はるかに有意義よ」
なんて杏子さんのささやきに、すっかり
「そうですよねぇ、役者は現場に立ってナンボ、ですからね」
と賛同していたくらいです。
事実、そう本気でそう思いかけていました。
まさに、そういう時でした。
琴音さんとの“事件”があったのは…。
〈続〉
昨日は最後に、劇団メンバーのことを話したんでしたね。
では話しを、舞踊ショーのことに戻して…。
わたしが舞踊ショーに出たのは、二日目の福島県郡山での公演からです。
郡山駅前に大きなホテルがあって、そこの大宴会ホールのステージで、慰安旅行の団体客相手の貸切公演でした。
例の如く、昼過ぎに現地入りしてから座長の“口立て”があって、その時に
「今日から高島さんも舞踊ショーに入ってもらう。杏子さん、とりあえずこのコと五分、埋めてくれ」
要するに、男役から女役への扮装替えの間をつないでくれ、という意味です。
曲は杏子さんが手持ちのMDのなかから、聴いたこともないようなド演歌モノを手渡して、
「とりあえず曲だけ聴いといて。振りは、本番でアタシのを見ながらついてきてくれればいいから…」
こんな調子なんで、舞台に出る直前まで不安でしたよ。
…でも実際、そんな程度で済むような超簡単な振りで―基本的に、広げた扇を手に舞台を大回りするだけ―結局気分でやってるだけなんだなぁ、って改めて思いました。
こんな程度のモノでいいのかしら、と踊りながらお客の反応が気になったんですけど、なんだかやたら大ウケで、後ろの席にいたオジサンが缶ビール二本を手にやって来て、舞台の前に差し入れみたいな感じで置いていったり、…そうそう、この時初めて、わたしも祝儀(オヒネリ)を頂戴しましたよ。
曲が終わった時に、最前列にいたオジサンが急に立ち上がって舞台に身を乗り出したんで、ナニする気だろうと思っていると、杏子さんが心得たように、オジサンの目の前に出て胸を突き出したんです。
するとオジサン、剥き出しのままの一万円札を衣裳の襟元に差し込んで、わたしの方へも手招きしました。
杏子さんも目で合図を送るので、わたしも同じように前へ出ると、襟元に一万円札が差し込まれたんですけど、その時の手付きが明らかに、胸元を触るような感じだったので、わっ…と思っていると、舞台袖に引っ込むなり杏子さんに、「それ、おサワリ料ってコトね」となんて言われて、「わたしはフーゾク嬢かよ…!」って、ここでも強いショックを味合わされました。
その時の一万円札ですか?
汚らしいワと、よっぽど棄てようかと思ったんですけど、よく考えたら別にお金に罪はないわけだし、その代わりに何か良い事に使えばいいかと、思い留まりました。
まぁそんなわけで、この旅芝居一座では様々な“洗礼”を受けて、そのたびにこの一座への嫌悪感を抱く一方で、ロクに稽古もしないで幕を開ける、行き当たりばったりな芝居を演じる日々は、舞台度胸がついた、と云う意味では、けっこう鍛えられました。
劇団ASUKAの人々も、東北地方を旅公演しているうちに、だんだんとわたしを受け入れるようになって、稽古不足は気になるものの、どこへ行ってもお客が喜んで手を叩いて、オヒネリを飛ばしてくれるのを目にしているうちに、次第に「あ、これでいいのなら、何とかやっといけるかも…」と思えるようになって…。
モノになり損ねたと云う似たり寄ったりの経歴と、僻みっぽい考え方を持つ少人数の集団とだけ四六時中行動を共にしているうちに、わたしもどんどん周りが見えなくなってきて、まだ何もモノを知らないが故に、少しずつ彼らのカラーに染まっていきだした、というんでしょうかね…。
今思えば、本当に怖いことですよ。
大衆演劇のやり方に呆気にとられっぱなしだったその二週間後には、わたしも彼らのやり方を何の疑問もなく受け入れつつあったんですから。
全く異常でした。
劇団に溶け込みつつあるわたしを一番喜んだのは、やはり生田杏子さんでした。
杏子さんはわたしを常に傍において、まるで実の娘のように扱っていました。
ある時座長が、「何だかホントの母娘みたいだな」って言ったくらいですもの。
…でもね、かつてのわたしだったら、その時の座長の“目”の表情に、何か読み取るべきものがある事に、すぐ気付いた筈なんです。
でも、“洗脳”されつつあった高島陽也に、そんな知力はありませんでした。
それよりも、
「ハルちゃん―その頃にはわたしは、皆からそう呼ばれていました―、いっそウチの座員になっちゃいなさいよ。ここにいれば必ず舞台に立てるわけだし、第一、現場で演技を磨けるのよ。東京なんかでさ、オーディションに落ちてばかりでロクに現場にも出られなくて、アルバイトばっかのムダな日々を送ってるより、はるかに有意義よ」
なんて杏子さんのささやきに、すっかり
「そうですよねぇ、役者は現場に立ってナンボ、ですからね」
と賛同していたくらいです。
事実、そう本気でそう思いかけていました。
まさに、そういう時でした。
琴音さんとの“事件”があったのは…。
〈続〉