迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊──庄内の夏の夕暮れ来てみれば

2019-07-27 22:28:46 | 浮世見聞記

黒川能の薪能公演「水焔の能」で大曲「道成寺」が掛かるといふので、四年ぶりに山形県鶴岡市へ出掛ける。


“五流能”では観世流と寶生流と金春流で観たことがある「道成寺」も、黒川能で観るのは今回が初めて──実際、この「水焔の能」で掛かるのは二十七年ぶりと云ふ。

こちらの「道成寺」は、三人の能力が釣鐘を斜めに担ひで橋掛りをヨタヨタと登場するなど萬事が写実的で、シテが登場してからの進行も早い。


格式張りすぎて退屈スレスレな五流のそれに対し、黒川能のそれはこの曲が本来持ってゐたはずの大衆的な娯楽性を、色濃く残してゐるやうにも感じらるる。

シテは“乱拍子”で、笛の音にのせて舞台を鱗形にさらさらと回り、


つづく大小の鼓だけで囃される“序の舞”を、じっくりと舞ふ。

鐘入りの導入部である『春の夕暮れ来てみれば』以降の謡は、黒川能ならではの優雅な節、やがて息を詰めた調子に急転すると、シテは橋掛りで烏帽子を中啓で前へ払ひ落とし、舞台を見込んで駆け入り、落ちる鐘に飛び込む──

後場はシテもワキも地謡も囃子も大熱演のうち、


九十分近い大曲を締めくくる。


都市の権力者に取り入る事で命脈を保った五流能は、道成寺の傳説を都会人好みに洗練化させ、庶民のなかに在った黒川能は、さうした傅説の土臭さを拂ひ落とすことなく、そのまま現在へと傳へた──

ひとつの作品が、環境の違ひによって大いに趣きを異にする興味深い實例を、今宵は目にする。


「道成寺」の前に上演された狂言は、「蟹山伏」。

手話狂言で初見して以来、蟹の精が掛ける“賢徳”といふ面が大好きになった演目。



サクッと素朴でありながら深い味はひを残す黒川能の狂言こそ、私に狂言の本當の良さを教へてくれた“先生”なるが、今回もその風味がぎゅっと詰まった嬉しい十五分。


現代手猿楽を創始するきっかけとなった黒川の民俗藝能、つぎはいつ逢へるかなと名残を惜しみつつ、会場をあとにせり。




今回は新潟駅から最寄りの鶴岡駅まで、特急「いなほ」号を利用する。



今までは頑として普通列車(ダラ)を乗り継ひでの移動だったが、新しく入れ替はりつつある車両が文字通りにつまらん“普通”なしろものであること、丁度良い時間の列車が無いこと、またこの時期の混雑要因たる、いはゆる“お仲間”にウンザリしたくないので、速達時間を買ふ選択をする。

特急列車は新潟駅を過ぎて村上駅までは、列車名にもなった青々たる“いなほ”を望み、



村上駅を過ぎると、日本海に沿って疾走する。


夏の白い陽に深い青海で彩られたこの車窓は、一ヶ月前には津波の危険を私たちに示した。

その眺望を手放しで愛でることを許さないところに、自然の厳しさがある。


砂浜では、いつに変はらず海水浴に興じる人々の姿が映る。

そこには、いつもの落ち着いた日常。

それは、落ち着きさへすれば、必ず取り戻せるもの。



──あの地震で、この沿岸の町の宿泊を即決で取り止めた人々は、おそらくは何事も落ち着いてものを見られない人だらう。

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