迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

いきていればうかぶせもあるだろう。

2015-01-06 08:39:52 | 浮世見聞記
横浜能楽堂の二階展示廊で開催中の特別展「番組で見る明治の能楽」を見る。


横浜能楽堂の舞台はもともと、加賀藩前田家の十三代、前田斉泰(まえだ なりやす)が隠居所に建てたもので、明治8年4月3日にその舞台披きが行われた。

能楽の最大の庇護者だった江戸幕府の崩壊は、能役者たちを困窮の極みに叩き落としたが、それでも細々ながら演能を続けて、能楽の灯を守り抜く者もいた。


特別展では、そんな苦しかった明治初めの時代の演能パンフレット-“番組”が数十点展示されている。

活字で刷られたものもあるが、大半が毛筆による手書きで、なんとか能で食べていこうという当時の能役者たちの必死さが、墨文字から窺える。

番組に書かれた出演者名のなかには、その後廃絶した流派の名も見え、この時代までは確かにその流派と人は存在していたのだと、感慨深いものがある。


そんな彼らの努力の甲斐あって、のちに横浜能楽堂の舞台となる前田斉泰邸の舞台が披かれた明治8年は、華族という新たな庇護者を得た能楽が、ようやく復興の端緒についた年とされている。


しかし、ここで注意しなければならないのは、能役者個人の力のみでは復興には限界があり、やはり能楽が能楽であるためには、権力者たちの絶大な“経済的援助”に拠るところが大きい、ということだ。


考えたら、能楽は足利義満の昔より、そうやって生き延びてきた芸能である。



庶民が謡をたしなむことで存続を支えた一方、権力と財力を有した者のバックアップこそが存続には不可欠である現実、そして存続のかなわなかった能役者と流派は廃絶せざるをえなかった、そんな運命の厳しさを、いまは名のみをそこに残す古い番組たちは、わたしたちに教えている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« よもつきじ。 | トップ | のこりいちにてしあわせをえ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。