踊りの「紅翫(べにかん)」を觀たくて、歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」の第二部に行く。
「艶紅曙接拙(いろもみじつぎきのふつつか)」と云ふこの常磐津の舞踊劇、主役の紅翫とは實在の人物で、駒形の小間物屋「紅勘」の若旦那云々、さりながら大道藝人となって竹の棹に酒升の胴で自作した三味線を杓子の撥で曲撥(曲藝的な演奏)をして自由に踊った姿が評判となり、歌舞伎役者の“大芝翫”こと四代目中村芝翫がぜひ演じたいと、本人から扮装や持ち道具まですっかり教はって舞薹にのせたものが、今日に傳はる。
私も學生時分に國立劇場で一度だけ、大部屋連の勉強公演で觀たことがあり、紅翫が實際に竹棹三味線を彈いて聴かせる件りがあったのを鮮明に憶えてゐる。
その後、前進座を創立した三代目中村翫右衞門が自傳のなかで、父の先代翫右衛門が小芝居で得意にしてゐた踊りだったと讀んで、たしかに藝達者が多かったと云ふ小芝居でウケさうな狂言だと、その曲名は強く印象に殘った。
(※二代目中村翫右衞門の紅翫)
今回はその曲藝との再會を樂しみにしてゐたが、主役が大芝翫の末裔だと云ふだけで曲撥もなく、竹棹三味線は抱へて出てきただけの小道具にすぎず、しょせん御曹子連の單なるお行儀の良い舞踊發表會でしかなかったのは、ガッカリ。
むしろ、期待もしてゐなかった「梅雨小袖昔八丈 髪結新三」のはうに大衆娯樂的な面白さがあり、瞠目させられた。
主役の髪結新三の調子(セリフ)が、この役を當たり役にしてゐた亡父十八代目勘三郎に生き冩しのみならず、
(※六代目尾上菊五郎の髪結新三 大正四年八月帝国劇場)
觀客の心を高揚感をもって最後まで惹き付けて離さない運びの巧さも亡父譲り、「さうさう、かういふ雰囲氣だった……」と、學生時分に觀た十八代目中村勘三郎の舞薹を再び觀てゐる錯覺にすら陥り、懐かしいやら、樂しいやら、そして怖いやうな……。
(※左 六代目尾上菊五郎の髪結新三、右 四代目尾上松助の家主長兵衞 大正四年八月帝国劇場)
今回の新三役者を觀たのは前名の時分以来と云ふこともあり、私はまたここに、現實世界の年月を思はずにはゐられなかった。