見境なく何でも焼き尽くす火事は、文明社会の敵(かたき)のひとつ。
近いところでは、首里城の焼失にその思ひを強くする。
幕末の開港によって発展した横浜も、火事には何度も悩まされてきた。
その厄介な災害と闘ひ、現在の消防につながる基礎をつくりあげた先人たちの記録を、横浜開港資料館の企画展示「横浜の大火と消防の近代史」に見る。
嘉永七年(1854年)三月十三日──旧暦二月十五日──、日米和親條約を締結したペリーは、江戸幕府へ数々の品を寄贈したが、そのなかには西洋式ポンプもあった。
日本の人々はその腕式のポンプに、ひとつのヒントを見出したらしい。
──この瞬間が、ニッポンの近代消防史のはじまりかもしれない。
その後、英人公使パークスにその手腕を認められた石橋六之助、同時期の増田萬吉とその右腕だった小澤倉吉たちによって、開港初期の横浜の防火体制は整へられていく。
明治四十四年(1911年)四月九日の午前十時三十分頃、東京の吉原で発生した大火事では──いはゆる「吉原大火」──、横浜からも蒸気式ポンプを率ひて應援に駆けつけた。
ところがその後、横浜市会議員たちがその蒸気式ポンプを持ち出したことにつひて、「警察の職権乱用だ」と非難した云々。
文字通り「対岸の火事」なる連中らしい難癖だ。
それから百年が過ぎた現今、大災害のたびに「被災者に寄り添ひ云々」を宣ふ目立ちたがり屋な同類たちを、この面々はだう思ふだらうか……?