橫濱市中區の日本郵船歴史博物館にて、企画展「郵船文芸譚」を觀る。
昭和十四年(1939年)、戰雲たれこめる時世をにらんで日本郵船社員の上下が一丸となるべく「郵船海運報國會」が結成され、その機関誌として「海運報國」が發刊される。
(※案内チラシより)
時世を反映した讀み物が掲載される一方で、「會員全員の談話室」をめざした會員たちによる文藝作品も多く投稿され、次第に内容の充實した文化誌に成長していく。
その「海運報國」誌の“文章指南役”として昭和十四年に嘱託待遇で招かれたのが、私の敬愛する内田百閒先生である。
(※内田百閒)
東京驛を設計した辰野金吾の息にして東京帝大の佛文學教授であった辰野隆が、日本郵船庶務課長の小倉鋼一に推薦したことによるもので、日本郵船側が事前に百閒先生の身元調査を行なったところ、「堂々たる文章家だが、奇人で皮肉で、酒屋と高利貸の間を往復する常習であることが判明」して日本郵船側が「怯えて」しまふのを、辰野隆が「居なほって」説得し承知させた經緯を、辰野本人がユーモアを交えて紹介してゐる。
かくして五十歳にして初めて會社勤めとなった百閒先生は、日本郵船社屋のかつて金庫室だった643號室を與へられるが、“643=ムシサン=無資産”のやうで癪に触ると、先生独特の發想転換で「夢獅山房(むしさんばう)」として名付け、敗戰後の昭和二十年九月十五日に社屋が米軍接収されたことによる解職まで、ここが仕事場となる。
嘱託在任中にはたびたび船旅を經験し、また船中の海上座譚會にも参加するなど、
(※案内チラシより 昭和十六年)
悠々自適な作家生活を送ってゐたが、昭和十八年三月、二年前にそれまでの「海運報國」を改めた「報國」誌が急遽廢刊となり、その三月號に掲載された「夕の雨」が、夢獅山房最後の随筆となる。
名著「東京焼盡」で、戰中戰後の首都東京とそこに生きる人々の有様を赤裸々なまでに綴った百閒先生の深い觀察眼と筆力は、この「夕の雨」でも雨中に故障して立ち往生した乗合自動車内で、あたりを憚らず連れの男に嬌聲を上げる若い女の奇態を冷静な筆致で描出して、讀む者にある種の不氣味な印象を残す。
日本郵船の機関誌は終戰十二年後の昭和三十二年(1957年)十月、「ゆうせん」として再出發、一方で内田百閒先生は鐵道ファン必讀の名作「阿房列車」をはじめ、同じ夏目漱石門下ながら心ならずも訣別した森田草平を偲ぶ「実説艸平記」、親友の宮城道雄に深い哀悼を捧げた「東海道刈谷驛」など、戰後も旺盛な創作意欲を示して、洛陽の紙価を高めり。